毎年子供も私も楽しみにしている盆踊り本番。ここ14年で踊らなかったのは一度だけ、同じ町内の義父のすぐ下の弟にあたる叔父が亡くなったあとの初盆だ。いつかは「その日」が来るのかもしれないけど、できるだけ義父母には元気で長生きしてもらって毎年踊っていたい。
小さい時から盆踊りといえば広場に提灯が四方八方つるされて、真ん中にやぐらが立ち、そこで和太鼓がたたかれて、みんなで二重三重の輪になって踊るものだった。その常識はそれこそ14年前、この地で初めての盆踊りに1歳のペン太と初参加したとき、覆されたのだった。
ここの町内会の初盆の家々と、一本の短い道路の端と端に向かい合って建っている二軒のお寺。それぞれの庭先で踊るというのだ。その庭先に入るときと出るときにもかならず同じ決まった踊りがあって、それを子供の背の小さい順に一列に並んで踊りながら輪を作っていく。出るときは元の入ったところへ一列になって出て行く。
初盆の家が7軒、寺と合わせて9軒踊らないといけなかった年が1度あって(私が踊った中では最多)、そのときは13日、14日と二日かけて踊り、くたびれかえったこともあった。逆に一軒も初盆の家がない年があって、そういうときは区長さんの家と寺2軒を回ると決まっていたのだが、その年、よりによって義父が区長だったため、準備におおわらわだったこともあった。
昔は一箇所で4曲。初めの年はダイエーホークスの若鷹軍団はレギュラーになっていなかった(笑)その後、ペン次が生まれた梅雨入りも梅雨明けもなかった米凶作の’93年、いざゆけ若鷹軍団が新曲となって、それ以降レギュラー曲に加わり、今では一箇所で5曲踊っている。…でも最近踊り始めた人の感覚では入りと出の2曲も加えて7曲、と思うらしい。
5年ほど前、青年団が解散するまでは、毎年10日ごろに花折り用の薄紙と提灯用の巻紙(わら半紙が二枚横に並んで貼り合わせてある)を宿題として子供たちが持ち帰った。赤、青、黄色の紙の花を各自20個くらい家で折り、青年団がそれを受け取り、5枚重ねの紙を交互に広げて紙花にする。その紙花は花笠となり、やぐら代わりの大きな投光器&音響装置をつけた軽トラックの飾りとなった。また、練習のあと、ちまちまと子供の数プラスα、割り箸のような細い木で作った四角い提灯の枠に子供たちが絵を描いた巻き紙がくるりと貼られて、ロウソクを差す釘が枠を支える支柱の真ん中に打ってあり、吊るす部分は針金が簡単にとりつけてあった。
寺が向かい合っている100メートルくらいの道の用水路沿いに、この子供の絵のついた提灯がずらりと吊るされて、寺での踊りの直前になると中のロウソクに火が灯された。毎年、踊り終わって自分の書いた絵の提灯を持って帰るのが子供の楽しみだった。あの光景は写真かビデオに撮っておくべきだった、、、。青年団が解散してからは、提灯作りがなくなってしまったのだ。紙花の宿題もかなり数が少なくなった。軽トラの飾りはプラスチックの花になってしまった。
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昼過ぎ、あれこれと荷物の整理を始めた。明日の朝、早めに帰るつもりでいたので、盆踊りの前に買い物もすませないと…。夫は義父のかわりに親戚の初盆参り。お土産を買いにいったものの、私の行ったスーパーではペン太リクエストのお菓子は見つからなかった。他の店にも回れば見つかっただろうが、初盆参りの車であまりにあちこち渋滞していたので、今年の夏は諦めてもらうことにした。小倉か博多の駅に寄れば絶対見つかるのに…車じゃ仕方ないなぁ。
全員のゆかたの丈は一週間前に義母がチェック。ついにペン次が子供用を卒業。夫の昔着ていた浴衣を着ることになった。
今年の町内の初盆の家は4軒、プラス寺2軒。ギリギリ一日で回れる軒数だ。今まで、夫が小さい頃から盆踊りのシメはお寺2軒だった。が、思えばもう提灯もないし、明るいうちに盆踊りして許されるのは寺じゃろう、ということで今年はじめて寺2軒が最初になった。多分これはこの先も続くに違いない。そして盆踊りの最後の家で踊り終わるのが12時近くなることももうあるまい。なんたって7時半までテニスの球が戸外で見えるくらいだから、毎年始まりが7時だったのだ。一時間早く6時から回れるようになったことで、役員も、回ってもらう初盆のお家の方も、あと片付けの負担がかなり減るものと思う。
夕方5時半公民館集合、に間に合わせるため、子供たちを4時半から着替えさせる。本当は4時からのつもりだったのに、前夜の疲れが残っていたのか、昼寝をしたら大人たちの方が爆睡してしまったのだった。帯結び、自分ひとりで結べるのは文庫か変わり文庫くらいしかないが、文庫系はちょいと年に似合わない。結局私もMちゃんも貝の口を義母に結んでもらった…。来年は全部自分で結べるようにならないとなぁ…だけど、義母の着付けは最後まで帯が崩れないのだ。そのため、ついついこちらもお願いします~と頼んできていた。思えば義母ももうすぐ○○才。甘える私たちがどうかしてたな…。
ドビーは一番に着せようと思ったのに、どうしてもゆかたを着たがらない。仕方がないので、甚兵衛の上に赤い兵児帯を締めて、それでよしとした。それでもカワイイ♪と思う親(バカ)心。ほかのみんなもゆかたを着て、ドビーは父と出発~のはずが、やはりみんなと行きたいのか動かない。結局子供たちみんな車に乗り込んでドビーは助手席に座ってもらい、ちゃっと出発。忘れ物とるふりして従妹たちに降りてもらった。ゴメンね、ドビー。おとなしく見学するか、一緒に踊るかが出来ないと、みんなに迷惑かけちゃうから…ね。夫も私がここにいる間、踊りではじけるのを知っているので、いつもドビーのお守り役を引き受けてくれる。ありがとう☆☆
そして私が踊りに出るのに義父母も大賛成してくれるワケがある。実は…地元の青年たちも子供の頃から踊っていたわけではない新曲だった若鷹軍団、同じフリの繰り返しではなかったので、次の年に踊ろうとして完全にフリを覚えていた大人は私だけだったのだ。だって、あのときは雨続きだったから、応援歌を歌いながら子供たちと一緒に座敷をずっと回っていたんだもの。それからは、◎◎さんところの嫁さんがダイエーホークスを教えてくれる、という噂が夏になると毎年この地区に出回っているらしい。昨年は帰省しなかったものだから、あんたがいなくて困ったンよ~とあちこちから声をかけてもらえて、覚えてもらっていたのが嬉しかった。今年は小さい子も多く、初めてのレギュラー曲の練習でえらそうに掛け声かけてしまった…。
今年の子供たちの移動はバタンコ(軽トラ)一台でおさまった。そのくらい小学生が少ない。幼児のうちは上(○○=地名)だけ踊る、下だけ踊る、と6軒もあると全部回ることはあまりない。時間があとになるほど踊り子隊のメンバーも少なくなるのが常だが、今年は最後に大きな家が控えているのでみんな頑張れ~と檄がとんだ。ペン次はバタンコの荷台でペン太の同級生の男の子と子供たちを見張る役、ペン太は図体が大きすぎるので、太鼓を運ぶバタンコで、青年のお兄さんと太鼓一式を運ぶ役となった。毎年子供たちをみてきた大人はいきなりオジサン仕様になったペン太や一年で10数センチも背が高くなったペン次にびっくりしていた。
Mちゃんと私は義母と一緒に婦人会役員をしてらっしゃる義母のお友達の車に乗せてもらう。盆踊りのときは小回りの利く軽自動車が便利だ。
それからあとはただただ夢中で踊る。初盆の周りの家々から、踊り子隊にお祝儀(御花=おんはな)が渡されるので、それを初盆の家かの方やお寺さんがとりまとめて渡してくれる。踊りの曲の合間に、「おんはなおんれいもうしあげる~」とマイクが入ると踊り子隊は拍手。○○さんから御花いただきました、と隊長が封をひとつひとつ読み上げ、そのたびに全員でありがとうございました、と頭をさげてお礼をいい、また次の封を読み上げている間は拍手が続く。初盆の家には親族が集まって、その人たちも御花を出すので、多い時は20軒分くらい読み上げることもある。
そのあいだずっと拍手するのが踊り子隊は大変なのだが、ずっと太鼓も鳴らすので太鼓係りはものすごくキツイ。全部踊りが終わると、スイカやビール&おつまみ、子供にはジュースやお菓子などが振舞われる。汗だくになるので、化粧は初めからしていられない。最後のお宅でペン太は初ビールをすすめられ、二口体験して、甘い酎ハイのほうがいいな、とぼそっとつぶやいた(笑)
そんなこんなで一軒につき40分~50分。移動時間はその年々で違うのだけど、今年は歩きが多く、効率がいい方だった。◎◎家の孫たちもみな大きくなって、途中で引き揚げることがなくなった。ペン太は最後のお宅で、憧れの真ん中の輪に初めて自分から入っていった。青年&元青年で構成される真ん中の輪は掛け声もひときわ大きく、手足の振りもわざとらしいほど大きい。とにかく威勢がよくて、子供たちの憧れだった。
全部踊り終えたときに今までは泣きごといってたHちゃんが、小さい子たちをねぎらっていた。恥ずかしがって来年は踊らないかも?女の子は、中学にあがると姿を消してしまう子が多いのだ。そういえば、あの頃青年だったみんな、いいお父さんお母さんになって、その子供たちも早いことに来年は小学生だし、子供たちがほんとに大きくなったことをあらためて実感。私いつまで浴衣で踊れるかしら…と思う。気持ちは全然変わらないのにな~
家に戻ったのが11時ちょい過ぎ。それから順番に風呂に入り、ご飯を食べた。食べたい?と聞くと腹減った~!と言うんだもの。精進の煮物をあれこれ食卓に並べると、子供たちは食べる食べる。ペン太はこの時間でもご飯のおかわりをした。だけど…すっかり出すのを忘れてたのが一つ。おきうと、食べ損なってしまった…。