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テーマ:地震情報(629)
カテゴリ:東日本大震災
先日も書いたが去年の3.11以降、メディアでは
「がんばろう日本」「絆」という言葉が飛び交った。 風化してはいけないと良いながら殆どの人の 頭の中からは震災は消えていっているだろう。 そんな中で瓦礫の受け入れ問題が浮上した。 私自身は放射能を帯びた瓦礫を受け入れるのは 抵抗があると思う。 しかし放射能を浴びていない瓦礫も沢山あるのは 事実でもある。 その両方をいつからか一括りにして 瓦礫の問題と報道している気がしてならない。 実際に放射能を浴びた瓦礫とは誰が判断するのか? 今まで正しいと言われていた政府が3.11以降 沢山のウソをついた。 その中でどんなに放射能は浴びていないと言っても 誰も信じることは出来ないだろう。 そのウソをハッキリと認め謝らない限り 受け入れ先の腰が重いのは明らかだ。 国内ではしたたかなやり取りが続いていると思う。 もっと断っていけば好条件が出てくるはずだと。 もちろん、その街に住んでる人達の意見なんて 聞く耳は最初から持っていない。 自分たちの利益になることを先行しているように見える。 これのどこが絆なんだろう? がんばろう日本と言っておいて被災地はすでに 日本から蚊帳の外に追いやられてはいないか? ネット上では心なき人達の言葉が飛び交っている。 震災直後だったらすぐに批判されるような内容も 今となってはそれが正しいと言わんばかり 我が物顔になって発言している人達が増えた。 中には瓦礫があって何か問題があるの?と言ってる人もいた。 しかも自分は見たことないから分からないけどと ちゃんと言い放っている。 メディアがいつからか自分の目となり、自分から その場所に踏み入れることは一切しない。 私自身も二度しか足を踏み入れてないし、そこで 何か出来たとは思ってはいない。 だけど今回の瓦礫問題で一つだけ言えることがある。 自分の目で見た瓦礫の山は震災の恐怖を思い出させるもので 街中にこれが当然の様にあるのは異様な光景でしかない。 この異様な光景が広がってる街が私達が住む 同じ日本にあるのは苦しくてしょうがない。 瓦礫の山は私達が震災に対して何もしなかった 象徴のように思えてくるのは気のせいだろうか? また、現地に足を踏み入れたときに、まだあの瓦礫が そのまま残っていたら私の心の奥に深く突き刺さり 自分の非力さにまた怒りを覚えると思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.03.23 16:02:14
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