お通夜の遺影は、会長の著書「暗い低音は好きじゃない!」の、巻末のあの写真だった。いい笑顔だし、自分も好きな一枚。
ご家族と撮られた写真や若い頃のお写真のコーナーもあって、そちらも人柄が偲ばれた。
しかし一オーディオユーザーでこれだけ名だたる輸入代理店やショップ、業界関係者から献花があり、参列がある人もそうはいまい。知ったオーディオ評論家、ショップ関係の顔が何人もいらした。いかに影響があったか、そしてちゃんと売買していたか。
昨日も書いた通り会長は妻の主治医でもあったし、妻の方が昔のことをよく覚えていた。最寄り駅周辺の区画整理で土地が売りに出ている、安く買えると教えてくれたのは会長だったそうだ。確かにTX沿線(特に茨城側)はここ以外見に行かなかった。そうなると益々運命めいたものを感じる。引き寄せられた。
会長なくして今の我が家は、ない。
うちの周りが散歩ルートだったようで、建築中1回/1~2週東京から様子を見に来ていたうちらより、よく状況を把握されていた。安い家だなと思っていたんじゃなかろうか(実際地元工務店で坪単価は安い)。壁が張られる前のオーディオルームに入ったのは会長と金Bだけだと思う。
私から少し遅れて会長宅建築になるのだが、そちらは格が違ったのは昨日記載の通り。構想から聞いていたし図面も見たし、建築後の室内調整にも立ち会った。電気工事も同じ栗原さんだったような。低金利ローンへの借り換えの話もしたっけ。
会長宅にはオーディオルームのほかに機器専用のバックヤードもあった。そこも含めて大量の機器をお持ちだが、自分とかぶっているものはたぶん最後までなかったと思う。趣味の大枠は同じでも、自分と音楽とオーディオ機器の趣味が合ったとは言いにくい。自分は会長が好きだったJBLもダブルウーハーも楽器のチェロも好んでない。
だからか、機器の貸し借りも意外になかった。覚えている限りだとクロックとLINN Purifiを持ち込んだくらいか。お借りしたのは何かのプリアンプ(ML No.38?)とD730かな。会長、少なくとも当時はA730、D730、D730Mk2とコンプリートしてたから。
部屋も機器も参考にさせていただいたことはもちろんある。いい例がエセ石井式ルームの吸音開口部の枠の取り付け方で、それが今の我が家のやり方になっている。が、実はその間13年くらい経つ。家が近いがゆえに急がなかったから。
そう、急がなかったのが後悔だ。会長はアイディアと実行力と人の発掘がすごくて、リペアや自作のやり方(あるいは発注先)は聞いておけばよかった。ARTEMIS EOSの塗装やAVALON ISISばらしは「暗い低音は好きじゃない!」にも書いてあるが、あれは一例だし肝心なのはどこの業者に発注したのか、どういう注文を出したのかだもんな。
傷を好まれなかったのでアンプのフェイスパネルの再加工/リペアとかもよくやられていた(どこで?)。金属再塗装を塗装屋に頼むと高いからプラモデル屋でやってもらうとも(どこの?)。どうやって探したのかパーツもよく取り寄せていたなぁ(どこから?)。
これらのアイディアやテクニックが消えてしまうのか。冗談抜きでオーディオ界の損失だと思う。
会長には100教えられて1お返しするくらい。なにせあのネットワークの広さではとても情報量がかなわない。教えてはもらったけど時間も財力も追い付かないなんて多々で、会長も教え甲斐がなかったろうな。
こんなの企画した・来ないか、こんな会がある・参加しないか、どこどこに集まる・行かないか。そんなことが20回あったのか、30回あったのか。最初の頃はたぶんBlogに記していたが、書けないことも多く、記憶の中だけが増えていった。メモを残しておけばよかった。
一夜明け。告別式。
身内でもない限り、お通夜参列して告別式もとはなかなかならないが、今回夫婦そろって「両方参列」と意見一致。GWの最優先事項となった。
ご友人の弔辞、いい内容だった。なかなか弔辞でSNSのハンドルネーム(nazo_otokoとか)が晒される人はいない。米国の裁判を晒される人もいない。学生時代からのエピソードは温かい。世話焼きで飾らない性格がみんなに慕われたし、(人によって使い分けていたらしいが)水海道弁もよかったんだろうなぁ。年齢問わず親分肌が頼られた。世のため人のため。
それは医師の立場もあっただろうが、私が脳梗塞でもうダメなんてやってるとき、会長ご自身も健康で悩まれていたのだ。そう思うと申し訳ないやらありがたいやら。
喪主の奥様のお言葉では「死ぬなら前のめりで」とおっしゃっていたそうだから、すべてにおいて実践されたのだろう。
棺の中のお顔にはこみ上げてくるものがあった。死の実感がわいてきた。
死と5月の青空のコントラスト。
そういえば。
この街には飛行場があって、モーターパラグライダーが飛ぶことがある。それに興味を持った会長、パイロットとコンタクトし、俺も飛ぶと言い出した。もちろん免許も装備も必要。
あれはコロナ禍前の話だ。その後どうしたか、外来でも話のオチを聞かなかったな。
空に昇られたか。
どうもありがとうございました。心より感謝いたします。永瀬宗重先生。
告別式でもまた、色々思い出しましたよ。