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「Life」を求めて

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2008.06.01
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朝、寝床から起きるのが苦手な人は多いと思う。

「もう8時なんだから早く起きなさい」
と起こされると、余計に寝床が恋しくなる。
「今日は天気が良いから起きてごらんなさい」
と起こされると、少しワクワクしてきて起きる力が湧いてくる。

理不尽な現実を納得させるのに、神話とか、宗教とか、学問とか、人間はそこにストーリーを付与することを発明した。
朝の寝床を起き上がる力だとか、人生を生きる力だとかは、そんな些細なストーリーの与えられ方に左右されているのかもしれない。


朝の意識の不思議は、なぜか毎朝必ずこの自分という現実に帰ってきてしまうこと。
もし、朝起きたら別の人間の現実を目覚めてしまうとしても、
記憶はその起きられた現実の内での連続性しか思い出させないから、
結局別の人間の朝を起きてしまっても、それは自分のいつも通りの朝に過ぎないことになってしまう。

意識の不思議は、必ず「いま・ここ」という時間的・空間的に代替不可能な中心点として在るということだ。
いや、それは意識の最小単位としてそう呼ぶだけで、例えば眠りの中では時間も空間も漠然とした広がりでしかないのかもしれない。
ただ、朝を迎えると、その無限の漠然とした広がりは、「いま・ここ」へと集約され中心化され、私の意識として還ってくる。

その私の意識というものが、なぜ「いま・ここ」でしかなく、それ以外ではなかったのか。
突き詰めてゆくと、私の成立の背景にはそのような理不尽で端的な事実が見えてくる。

いつの日か、朝の寝床でそんなテーマを考えたことがあった。


先日の日記に書いた鈴木弘之範師の「足踏みが、正しくできなかったときでも、そこで往生することです。そのぶんを補うために闘うのです。 」というのは弓道だけでなく、まさにそんな理不尽な朝の自分を納得させる説得力がある。
与えられた現実に往生し、日々の世界をあらためるということ。
それが、その状況に対する自覚というものでもある。
「自覚」というのが、「いま・ここ」が何のためにあるのか、その背景も踏まえて「いま・ここ」であることを了解している状態のことだとすると、鈴木範師の「往生」には自覚の意も含まれてくるだろう。
逆に自覚のない往生は、ただの絶望でしかない。

あらゆる理不尽に立ち向かう方法。
往生すること。

朝の寝床から起きるとか、

悪い足踏みを最後まで踏み切るとか、

この生を引き受け、
生き抜くとか。。。





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Last updated  2008.06.02 00:50:19
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