|
カテゴリ:カテゴリ未分類
我々が何かを目指そうとする時、そこに至るまでの時間、空間というものがある。 新幹線で四時間の距離を二百年前の人間は半月歩いてたどり着いた。 この四時間と半月の距離感の違いは、そのまま到達点への重要さや、自分がそれへと向かう緊張感に反映されてくる。 同じ距離ではあるが到達点とそれに向かう自己との関係性は全く異なってくる。それに伴い物事や人生の向き合い方にも決定的な影響を与えることになるのだろうか。 例えば的への距離の取り方はそのまま行射の緊張感に繋がる。 今日は市役所への用事が済んだ後新幹線の時間まで間があったので道場に行った。 【09年12月4日(金)24射16中6.7割 ◎7 △0】 的と自分との距離感、身体と精神との距離感、道具と技術との距離感。 その距離は様々な条件が流動的に変化し続ける状況でなかなかに掴みにくい。 だが行射を重ねるなかで<今、ここ>という着地点を発見することがある。 身体の条件、精神の条件、道具の条件、場所の条件、 様々に諸条件が何乗倍にも複雑に絡み合う現実で無限に展開される選択肢で自己をどう処して、そのベストな着地点に至るのか。 修練は選択肢の拡散ではなく収束方向に重きを置くべきなのだろう。 <今、ここ>という確かで直接な実感、そこにはタイミングを逃さない、間延びしない、緊張した時間を自覚することだ。 例えば、 地球の中心に向かって重力と共に肚が落ち沈み、大地からの反発力が脊椎の中を射抜き天に向かい伸びるうような、そんなような立つことの喜びを感ずる。これはただ立つということがそのまま、存在していることへの祝福であるかのような感じである。 例えば、 弓矢と左手とわき腹の負荷が、思い通りの軌道を描いて、思い通りの感触を伴って、はっきりと的に焦点が合わさる感じがある。 ここには観るということと行為との一致、自由な意志が必然的に、運命的に予定調和へと導かれる喜びがある。 例えば、 弦を目一杯引き絞り、弓の中に身体を侵入させる。的へ向かい弓を推し続けることだけに現実の全体が集約し、見えている世界の風景が、時間空間がその一点に錐揉みに収束していく感じ。 そして後に起こる一瞬の場の転換。 その射手の意志を表すかのように矢は真っ直ぐに飛行して迷い無く的に向かう。 結果がどうあれ我々は離れと共に一度死を体験する。 一つの呼吸の内に一つの生死を体験するように、一射の内に一つの生死がある。 死を意識しない生が頽落するように、離れを直観できない射は成功しない。 この決定的な場の転換。一つの現実の終焉と、新たな現実の開闢。そんな生命のダイナミズムをイマージュする楽しみがある。 <今、ここ>という自覚を表現するに、弓は非常にしっくりきて仕方がない。 こんな弓との付き合い方、距離感が好きだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.12.04 17:26:29
コメント(0) | コメントを書く |