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坐禅堂に坐り只管打坐する事が、かえって坐禅堂を離れることになる。
射に徹し集中することが、射を離れさせしめることになる。 「今ここ自分」という現場に徹するということが、そのまま現場を離脱させるという矛盾が起きてくる。 「修証一如」とか「心身脱落」とかいうことには、その構造が含まれている。 老子は「赤ん坊に還れ」という。 赤ん坊は自由自在である。小さな身体で、あんなに大きな声で泣けるのは、人間的な堅さが無いからだ。 命そのものから発せられる声だからだ。 お経にも命そのものを乗せていかなければと我が子を見て思う。 子に人間的な限定を加え、人間の世界に参加させしめることが教育である。 老子の言うように、赤ん坊に還るということは、人間を辞めるということだ。 澤木興道老師の言うように、坐して「人間を廃業」することだ。 人間的な場を離れ、自然に還る。 赤ん坊のように柔らかく、世界とケンカせずに。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.10 13:02:43
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