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「心身は脱落なり、脱落は心身なり」と道元さんは言う。
心身はどこから脱落しているのか、狭い人間の思惑の世界からすでに、そして常に脱落している。 心身、即ち生命は一切何も手をつけなくても、すでに手の施しようがないほどに救われてる。 フッサールが言うように意識とは指向性である。 つまり意識というものは、常に何ものかに対して働いている。 だから意識とは矢印そのものである。 その矢印の先っぽに矢印自身は触れることができない。 目は目自身を見ることができない。 「今ここ自分」という矢じりの先っぽは常に世界を破り、時間の膜を裂いて進み続けている。 そのため、私というものは常に時間の最先端におり、世界の中心におり、ありとあらゆる縁起が集約してできているこの自己として在らしめられている。 あるがままにあるというその現前の事実そのものが、仏教においては、もう手の施しようがない程の救いなのだ。 未来に神の復活を待つまでもなく、過去に由来する原罪という借金も人間は本来持ってはいない。 「今ここ」を離れて、将来へのアテや、過去からのシガラミに右往左往する、そんなギャンブル的な世界観に人生を当てはめる必要もない。 手の施しようがないということ。 それが坐禅である。 手の施しようがないその進みを、救いを只々味わうのみである。 今ここ自分には何も足せない、何も引けない。 それ以上でも、それ以下でもない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.10 13:01:23
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