|
カテゴリ:カテゴリ未分類
お釈迦さんが悟りを得るのに菩提樹の下でしたこと、それは坐禅である。
南無阿弥陀仏の念仏でも、何妙法蓮華経のお題目でもない。ましてや読経や祈祷でもなく、ヨーガでも瞑想でもない。 坐禅である。 何かを上手くやろうとする事ではなく、積極的に技術や目論見を捨てて、何もしないようにつとめるというとである。 その坐禅と仏法をインドから中国へと伝えたダルマさんも少林寺近くの山で壁に向かって9年坐禅した。 坐禅するダルマさんに弟子入りしようとして、取り合ってもらえなかった慧可さんは左腕を肘から切り落としたという。 そこまで思い詰めて弟子入りするものかと不思議になる。 ダルマさんが面壁せず、お釈迦さんと同じく正面向いて坐ってたなら、腕を切断することも無かっただろうなと思う。 何故達磨大師は前後裁断の面壁坐禅をしたのだろうかと、坐りながらいつも考えてしまう。 その面壁坐の伝統は道元禅師によって日本にしっかりと伝わっている。 禅宗とは言うものの、生活の中に坐のある禅宗の僧侶なんて日本に一割もいないのではないだろうか。 少なくとも身の回りには一割くらいしかいない。。。 坐禅といえば、足が痛いとか、じっとしてないと叩かれるとか、まるで我慢比べのような印象しか一般にない。 僧堂に身を置いて修行している雲水でさえ、何十年も僧侶としてやっている老僧でさえ、そのように坐禅をとらえている者は多いように思う。 坐禅は我慢比べでもないし、成長とか上達を期待して坐るものでもない。 お悟り見性を求めて坐るものでもない。 坐禅は未来に結果を期待する、スポーツやギャンブルや、経済活動などとは全く異なる。 ただただ自受有三昧、在るがままの「今、ここ、自分」に感謝し、安らうことだ。 夜眠る時に、次の明日朝起きないかも知れないと心配する人はあまりいない。休まれば身体は自ずから目覚める。それだけ自分の身体を無意識に信頼している。 睡眠と同じく、自分が自分へと落ち着くこと、自分が自分へと安らうことだ。 ただ自分が自分をする。 ただ坐禅が坐禅するというところだ。 それを只管打坐と宗門では言う。 人間特有の苦しみは、いつもかならず 「今、ここ、自分」を離れてしまうことに起因する。 ただただ置かれた場所で咲くこと、そこをおろそかにせず、離れないこと。 足るを知ること。 ごくごく単純なリアリズムである。 2500年も仏教が伝え続けているその簡単な事実が、まずその伝道者自身に正しく理解されてないんだなとつくづく思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.15 01:38:13
コメント(0) | コメントを書く |