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技術とは、物の在りように添い遂げることだ。
だから技術が機能するということ以上に私の入り込む余地はないし、私が右往左往して技術を操縦するべく努力することは何もない。 あえて言うなら、ものにあたって全力でもって力を抜くことなのだろう。 樹の枝葉は風に任せてざわざわとその身を揺らす。そこには我というものはない。全身全霊で樹は樹である。 川の水は地形に合わせて速くなったりゆっくりなったり。全てが回りの環境に決められていて、そこに身を任せて流されている。 そこに我というものはない。 故に自由自在である。 条件は全て決定されている。 だからこその自由である。 美しいお経を挙げたいと思う。 でもどんなに稽古を重ねても、自分の物ではないまったく新しい声が手にはいるわけではない。 力の限り力を抜いて、自分の声を活かし響かせるようにするしかない。 赤ン坊の鳴き声が、なぜあれほど大きく空間にも心にも直接響くのだろう。 もともと人は、生まれながらにそれだけの声量を有している。 それを自分で潰しているだけなのだろう。 赤ちゃんは一つの技無き技、不射の射というものを体現していると思う。 任せている。 声の響きを身体に任せる。 坐の中心線を見出すことを身体に任せる。 弓の操作を身体に任せる。 走る速度を身体に任せる。 筆の遅速を身体に任せる。 答えは身体が知っている、任せれば自ずから応えてくれる。 野口三千三曰く、信ずるとは、負けて、参って、任せて、待って。 身心はもとより脱落している。 脱落した場所そのものが身心なのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.02.19 18:55:36
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