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「Life」を求めて

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2014.04.25
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カテゴリ:カテゴリ未分類
鶴岡の桜、今年も綺麗に咲ききり、だんだんと散りつつあります。
先日地元銀行の新入行員の坐禅研修会を担当しました。
昨年に引き続き担当したが、今年も爽やかな笑顔で、窓口に置いて間違いなのないであろう出来の良さそうな新入行員達が総勢52名。
一回40分の坐禅を、二回、三回と重ねるたびに皆の坐相と顔付きが良くなっていくのがわかります。
合間に祈祷したり、法話したり、散歩したり、作務したり。
質疑応答の時間、「坐禅は落ち着く」とか、「自分と向き合うことができた」とか、良い子ちゃんな無難な感想、無難な質問ばかりが続く中、ある男の子がした質問。
「坐禅する時の心持ちと、ご祈祷する時の心持ちは、何か矛盾していると感じましたが、違うものですか?」
一緒に担当していた老師は一言「おんなじだよ!」
と一蹴。
その男の子は納得いかないような表情で座ってしまった。
私は、「ううむ」と思いました。
なかなか鋭い質問だなと。

坐禅の心持ちは「今、ここ、自分」
一方、ご祈祷の心持ちは「願わくは〜〜」
ということです。
願いごとをしてる時点で、「今、ここ」から自分が離れてしまっている。
確かに坐禅とご祈祷は矛盾する心持ちである。
では、老師の言った「おんなじだよ!」という言葉は間違いなでしょうか?

坐禅とご祈祷に共通することは、どちらも「気持ちの手放し」をしているというとですかね。
坐禅をすることは、人間的な思惑、意志から手を離して、
身体を今ここ、あるがままの場所にゆだねまかせる、ということです。
何もしない坐禅は、何かをしたり、求めたりする必要がないくらい満たされてるということ。
言い換えれば「何もしなくてもあなたはいま大丈夫だよ」というこの世界、からの保証です。

一方のご祈祷は、龍神さまに今抱えている願いを託して、気持ちをゆだねまかせる、ということだ。
願いが強くて、抱えきれないからこそ、願いを神仏にお任せしてしまう。

どちらも他力本願ということだ。
独り坐って自分に向き合う坐禅は、特に自力的なイメージが強い。
澤木興道老師の有名な言葉「自分が自分で自分を自分する」なんて言われたら、坐禅は自力行だと思われるだろう。
だが、それは自分を閉じることでなく、自分を開き、世界へと解き放つことだ。
自分に起こる何事をも、良いこと悪いことも区別なく受け入れてしまうという事だ。
良寛さんが言った「災害に逢う時には、災害に逢うがよろしく、死ぬ時には、死ぬがよろし」ということも同じ事だろう。

フッサールという哲学者は、「人間の意識とは指向性である」と言います。
指向性、つまりは何かに向かう「矢印・ベクトル」のことだ。
でも、矢は必ず的を射抜く為に放たれるものです。
対象との一致、合一がなければならないと思うのです。
意識は矢印ではなく、一円相にならねばならない。
と、思うのです。
今ここ自分を徹底すれば、おのずとそうなると思うのです。
そこには、等身大のあるがままの自分への信頼があります。

「放てば手に満てり」ですね。
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Last updated  2014.04.26 22:42:51
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