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毎日、昼休みに坐禅することを始めてから一年半以上経ちます。
最初半年以上は1人で坐っていたのですが、しばらくすると何も言わずに一緒に坐るようになった修行僧が何人かいます。 曹洞宗は達磨大師から続く壁に向かって坐す面壁坐禅の伝統を続けてきております。でも、私は一人で坐る時は、面壁せずに窓からの風景を視界に入れながら坐っています。 杉の枝が風に揺られる様子に柔軟心を教わります。 自身の身体の動かし方や、声の出し方なんかも、この杉の枝葉のゆらぎの中に教わる気がします。 最近は、杉の枝葉の奥に、満開の桜が眩しく飛び込んで来ます。 この視界に収まる世界は、とても美しくて尊いものだと感じます。 「今ここ」から開かれている、この視界とは一体何なのでしょうね? 世界の中心は、常に「今、ここ」にしかありません。 昨日でも明日でもなく、百年前でも、百年後でもない、今。 この今という「時間の最先端」に常に私はあります。 それ以外ではありえません。 そして「ここ」ですね。 別の銀河系でもなく、この地球の、日本という国の、東北、荘内という地方。 何故ここなのか? でも、常にここという空間に中心化され、その一点から開かれて私はあります。 それ以外ではありえません。 「即今、当所、自己」「今ここ自分」とよく言います。 そこをよくよく味わっていきたいものですね。 それを 尽一切、 一円相、 純粋経験、 色々な表現があります。 あるがままの心が、意志という小さな矢印となってしまうと、途端に世界の抽象化がはじまります。 あるものを見るということは、言い換えればそれ以外を見ないということ。 あるものへと向かうということは、それ以外には向かわないということ。 そこに、豊かなあるがままの世界を貧しくする、「抽象化」がありますね。 それによって人間は、世界を思いのままに作り変えることができるわけです。 例えば、常にイヤホンをして好きな音楽を聞くことがそれですね。 静寂に身を置いてみて、はじめて聴こえてくる世界の音があります。 人間の作為、思惑をどんどんと外して、思惑以前のあるがままを忘れてはいけないと思います。 たまにはニンゲンをやめてみる必要がありますね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.04.26 23:04:58
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