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すっかりと庄内の桜は散り、山の高い位置に所々の葉桜を残すのみとなりました。
この時期の草木の新緑の濃さはとても強烈で、山の稜線からみどり色が滲み出るかのようです。 今日、小雨の降る中、いつものように坐禅していると、突端正面の窓に大きなカラスが飛んできて窓の縁にとまりました。 一瞬目が合ったと思ったら、即座に飛び立って行ってしまいました。 中学生の頃から、写真家の「星野道夫」の写真と文章が好きで、この人の作品や著作を、今だに読み返したりします。 この人の文章に心が安らぐからです。 そのカラスとの思いがけない出会いで、いつか読んだ本の中の一節が頭に蘇ってきてしまったので、あとゆっくりと単を降りました。 その一節を紹介します。 「先日、アラスカの川をゴムボートで下っている時のことだった。川の流れに身を任せながら、ふと前方を見ると、川岸のポプラの木に一羽のハクトウワシが止まっている。急流はゴムボートをどんどんと木の下へと近付づけ、ハクトウワシもじっとぼくを見下ろしていた。飛び立ってしまうのか、それとも通り過ぎさせてくれるのか、ぼくはただぼんやりとハクトウワシを見つめていた。それはぴんと張りつめた息詰まるような時間でもあった。ぼくを見つめているハクトウワシには、過去も未来も存在せず、まさにこの一瞬、一瞬を生きている。そしてぼくもまた、遠い昔の子供の日々のように、今この瞬間だけを見つめている。一羽のワシと自分が分かち合う奇跡のような時間。過ぎ去っていく今がもつ永遠性。その何でもないことの深遠さに魅せられていた。川の流れはぼくをポプラのすぐ下をすり抜けさせ、ハクトウワシは飛び立たなかった。 日々の暮らしのなかで、"今、この瞬間"とは何なのだろう。ふと考えると、自分にとって、それは"自然"という言葉に行き着いてゆく。目に見える世界だけではない。"内なる自然"との出会いである。何も生み出すことのない、ただ流れてゆく時を、取り戻すということである。」(『長い旅の途上』P13) いや、今改めて読み返してみて、星野道夫は、坐禅の心、坐禅の時間に非常に近く、共通するものをアラスカの自然の中に見出していたんだなと思います。 私は僧侶として、人々に坐禅の布教をしていきたいと思っています。でも、それは全ての人々にムリに坐禅を組んでもらいたいわけではなく、誰しもが「今ここ」に安らげる自分、「内なる自然」というものが、いつでも常にあるのですよ、ということ、 その当たり前の奇跡のことを見過ごして欲しくないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.05.01 13:39:50
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