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夜、修行僧に講義をする。
昨日のNHK文化センターの資料を使って話をする。 道元禅師の有名な歌に 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」 春をミクロ的方面に限定していくと花が出てくるが、「この花」には行きつかない。「この花」をマクロ的方面に拡大していっても春そのものに還元されつくされない。 子供が言葉を学習するのに最初に春からはおぼえない。まずは「この」花を見て、それから花は春に咲くものだと学習するだろう。これは→何かであると学ぶ。春はナニ。花はコレである。 大人は「コレ」をすべて「ナニ」かに還元しようとする。科学者や法律家、経済学者や評論家の仕事はすべてがそれであるだろう。 逆に詩人、芸術家は「ナニ」かであるものから「コレ」を救い出す方向の仕事をしている。 修行が「ナニ」かであると、途端につまらなく辛いものになる。「コレ」を見いだせると途端にありがたく大切になってくる。 正法眼蔵の現成公案は「コレナニ」ってことだという話をした。 現成→コレ 公案→ナニ ナニコレ鎮百景やなんだこれミステリーでもいいが、「コレ」を救い出せる修行が成仏ということにもなるのではないか。 先日引用した岸政彦の文章での「この小石」は無数の小石から成仏させられて「この小石」になったとも言える。 公案を現成させる。意味から事実を救い出す。これが成仏ということか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.01.26 07:48:14
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