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「Life」を求めて

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2019.10.04
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カテゴリ:修行のこと
坐禅における「調身・調息・調心」の「調」は調(ととの)うという意味と、調(しら)べるという意味がある。仏陀が菩提樹の下での、悪魔との対自にはこの「調」があったであろう。
悪魔の正体を知るということは、自己をよくよく観察し調べ上げた結果である。
調という態度の反対は「衝動的」ということである。自己を離れる、自己をわするると言っても、そこに衝動的なものがあってはいけない。
「放逸」になるなとたびたび仏陀は弟子達に箴言する。放逸とは衝動的に生きるということだ。車の扉をバンッと閉めてしまう。おもわずキレる、ムカつく、無視するなどもそうだろう。月曜の朝に会社に行きたくないと鬱々とする。ケータイをいじりながらガツガツと食事をすることもそう。生活のあらゆる場面で「放逸」という悪魔と出逢う。
アドラー心理学においては、例えば他者に対しての怒りの動機というのはすべて自己にあることを教えてくれる。子供が皿を割ったという事実がある。それに対して親は怒鳴り散らしたとする。子供が不注意だから親は怒鳴るのではない。子供の為を思って怒鳴っているのではない。子供でもちゃんと話せば次から気を付けるのだ。これは親が怒りたいから怒鳴るのだ。条件にあえばいつだってその怒りを表出させる。いつだって暗にその怒鳴り散らしの機会を伺っているのだ。スイッチが入ると反射的に怒るように自分でプログラムを仕組んでいるのだ。そのプログラムを解除することは簡単だ。ただ観察すればよい。明らめればよい。
仏教の戒律とは、それを守ることが主眼にはおかれて作られてはいないだろう。殺すな、盗むな、浮気するな、嘘をつくな、深酒するななど。これら戒律とは、あなたはいとも簡単にそれをやってしまう人間であるよと教えてくれているのだ。それを戒として保つ。これは単にルールを守るということではない。常に自己の内にいる悪魔のプログラムに自覚的であれということだ。
釈迦の悪魔との対峙の方法をよくよく参究しよう。





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Last updated  2019.10.04 13:50:44
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