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「Life」を求めて

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2019.10.05
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カテゴリ:修行のこと




臨済は達人の禅 曹洞は初心の禅と言われる。臨済は大人の禅。曹洞は赤ちゃんの禅だ。
赤ちゃんは生まれながらに母親や大人に頼り切って任せきっている。大人の愛情や慈悲の心を前提として産まれ生きている。それはとてもリスクの大きな生き方だ。絶対他力の生き方である。任せるということは南無ということだ。南無の姿で生きている。
人類はこれまでとても厳しい生存競争を生き抜いてきた。その生存の歴史の中で沢山の赤ちゃんが死んだり、殺されたり、捨てられたりしてきたことだろう。しかし幸いなことに沢山の人間の大人達は赤ちゃんへの慈悲や愛情を忘れなかったし、人間の赤ちゃんは生まれてすぐに自ら立ち上がって歩いたり、自分で食べたりをするようにはならなかった。他の生き物たちはほとんどがこの世界に生まれ出て立ち上がることができるというのに。じつは本当は赤ちゃんも生まれてすぐに立ち上がれるだけの骨格と筋力は備えている(写真の赤ちゃんは生後7カ月)。不思議なことに赤ちゃんは意図的に立とうとしないようプログラムされているのだ。
大人達から目に付き愛されやすいように丸い顔かたちうまれ、大人たちがすぐに助けてくれるように、小さな体でとても大きな声で泣く。この赤ちゃんの存在は大人たちにとってお大きなリスクであり、手間であり、面倒である。(ちなみに釈迦は自分の赤ちゃんにラーフラ(邪魔者)となずけたが。)
現代で引きこもりの数は多い。私も産まれてから18歳までずっと引きこもりであった。これは赤ちゃんの生き方である。
釈迦も出家をして托鉢をして布施を受けて生きる道を選んだということは、この赤ちゃんの生き方を選んだということだ。いわゆる布施とは、母が赤ちゃんにおっぱいをあげることと同義である。与える側と与えられる側の存在価値を満たす原初的な行為だ。世間から引きこもったが、仏教は世間から認められ、引きこもりは世間からは認められてない。この違いは何であろうか。仏教徒と引きこもりの違いは、世間に対して布施をしていないからだろうか。いや、そんな社会貢献や損得やギブアンドテイクの問題でもないだろう。有為の布施と無為の布施とをよくよく参究したい。





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Last updated  2019.10.05 08:22:56
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