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カテゴリ:日本ってなんだ研究
大邱に住んだ加藤清正の部下『沙也可』
『神霊の国』井沢元彦著を読み終わった。 豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、沙也可という武士がいた。彼は、部下3000人とともに朝鮮に投降して、金海金氏となり大邱に住んだ という話が気になった。 韓国ドラマを観ていて、大邱の方言が名古屋弁の香りがすると思ってたのよね。 同じ慶尚南道だけど、大邱と釜山は全く違うイメージが違うのよね。 気になったので、沙也可について調べてみた。 東大邱に沙也可の子孫が300人。全国には7000人いることは本当らしい。 だが沙也可が、どこの武士だったかは、不明である。
≪ 大邱の人になった清正の部下 沙也可の子孫7000人 ≫ 沙也可(さやか、1571年? - 1643年?)現代韓国語発音ではサイェカとなる。朝鮮では金忠善(キム・チュンソン)韓国においては英雄扱いされているが、その活躍の実態は不明な点も多い。 彼の伝記『慕夏堂文集』によると、文禄・慶長の役 1592年4月に加藤清正の先鋒部将として釜山に上陸したが、朝鮮の文化を慕い、また秀吉の出兵に大義なしとの思いから、3000人の兵士と共に朝鮮側に降伏した。 沙也可は火縄銃の技術を朝鮮に伝え日本軍とも戦い、戦後その功績を称えられ朝鮮王から金海金氏の姓を賜り(賜姓金海金氏)、金忠善と名乗って帰化人となった。韓国の両班(リャンパン)として生き抜く。現在の大邱近郊の友鹿に土地を与えられ住した。その後も女真族による侵略を撃退するなどの功績により、正二品の位階まで昇進した。 2013年現在でも朝鮮半島では英雄とされている。韓国の大邱市郊外の達城郡嘉昌面(カチャンミョン、가창면)友鹿里(ウロンリ、우록리)には、沙也可の後孫の1族が暮らしている。1992年には韓国で記念碑が建立された。 参考・・・Wikipedia 沙也可
・ポケット図解韓国がよ~くわかる本: 歴史、民族、社会、生活の実際が見える!沙也可は、慶尚南道晋州の領主の娘と結婚して5男1女をもうけた。 友鹿金氏の子孫は、7000人。 友鹿洞(ウロクトン)の沙也可の子孫は約300人。 沙也可の子孫は、いまでは400世帯2千人以上になるという。 韓国の東大邱には現在でも「友鹿」という村が現存し、「沙也可」将軍達の末裔が暮らしている。 「沙也可」将軍(金忠善)から14代目の子孫、一族の会長を務める金仁鍚氏曰く、 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年11月12日 15時08分04秒
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