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テーマ:暮らしを楽しむ(387678)
カテゴリ:日本ってなんだ研究
項羽と劉邦になり、中国を駆け巡る! 今日は雨だからさ。日本を離れて、遠い昔の中国の妄想を広げます。 中国は、漫画で『三国志』を読んだぐらいしか知識がありません。 司馬遼太郎の『項羽と劉邦』を読みながら、地名を地図でたどっています。 すごく面白いですよ。 話は、始皇帝が秦を作った、起源前221年から始まります。 当時日本は、縄文後期です。弥生前期ともいえます。 BC200年前後から農耕がどんどん日本に入ってきたのが分かりますね。
中原から遠い、山間の小さな秦が、中国を統一できたわけは何だったのでしょう? たぶん、東から、他よりも新しい情報と技術が流れてきていたのでしょう。 世の中に偶然てありません。必然がある。 他と一緒だったら、勝てませんからね。 だから強い兵力があった。法と官僚による地方統治ができた。厳しい税収と労役をさせた。 なんと、始皇帝一代で大帝国と、万里の長城と、大きな墓と、建造物を作った。 中国は、多民族で、多国家でした。 秦に搾取された人々は、始皇帝の死後、次々と反乱を起こします。 最初に反乱を起こしたのは、陳勝・呉広という二人の楚の農民であった。 楚というのは、揚子江下流の北側です。劉邦は楚の農家の生まれです。 文字と学問はほとんどなかったようです。 南側が、呉です。項羽は、楚の将軍の孫として、呉で育ちます。亡命家族なんですね。 叔父に教育を受けているようです。
呉といえば、時代は下りますが、赤壁の戦いの孫権の国ですね。 孫権と言うと南アジアティックなイメージが強かったので、ベトナムの上ぐらいに思っていたのですが、地図でみると、鹿児島・種子島・屋久島ぐらいの緯度でした。 楚・呉というのは、中原の漢民族と較べて、顔も体格も服装もちがって、異民族だったようです。
中原の人たち(黄河周辺)は、小麦食で背が高く、長い顔だったようです。 楚・呉の人たち(揚子江周辺)は、コメ食で、背が低めで、断髪、刺青等の習慣があったようです。 今日は、この続きから進みます。
年金生活の楽しみの一つは、歴史研究。 これ、初めは名古屋弁研究から始まった。 …2013年8月7日 日本の中で名古屋弁ってどこに似てる? ほんとの元は、韓ドラを観ていて、大邱あたりに親近感を感じたところからかも?
名古屋弁のアクセントから、全国にいくつか似ている地方があることを知り、 それって、歴史とかぶるなと思ったことから、 地元の津島神社のスサノオに興味をもって、古事記の話に進んでいった。 古事記を読んでると面白い。 だけど 歴史学者や考古学者の本はたくさん読んだけど面白くないのよね。小難しいし。 それで、歴史小説を読むことにしたんだけど、これも人によって知識の差があるんだよね。 一番司馬遼太郎が、一番面白かったわけ。 …司馬遼太郎脳育成 おいらの日本ってなんだ研究は、芋づる式にどんどん広がっています。 《妄想日本史 隠された須佐の男を探せ!1 》2014年1月26日改訂 ここまでの日本てなんだプロジェクトは、2年半。 毎晩飽きもせずに、進んでいます。 いつか、民俗学者柳田國男さんの本が読みたいと思ってます。 歴史と痕跡でわかることがあると思います。 読んだらすぐ忘れちゃうので、メモもして置かなくっちゃね。
PS.秦に対する暴動を起こしたのが、陳勝も劉邦も項羽も楚の人というのが気になったわ。 楚の人は、支配されるのを嫌っていた。 個人ではおとなしいが、集団になると爆発的に燃えるエネルギーがある。 楚って蘇に通じるかも? ここからは、妄想なんだけどね。 楚のあたりを現在江蘇省といいます。そして、蘇州っていう地名もあります。 鹿児島にも近いです。体格も気風も近いものを感じますが…。 薩摩隼人は、奈良の時代から兵士として活躍していたんですが。阿蘇も近いです。 またまた、蘇民将来というのもありますね。 スサノオが旅していた時に 蘇民将来が丁寧にもてなしたので、生き残れたという話。 それ以来、蘇民将来という札を全国で貼るというやつ。 それは、住んでいた人が蘇民だったのではなく、 蘇民が将来 来るっていうこと? もしくは、将来蘇民だったことかも? その時には助けるってこと。 もう一つ、スサノオは文字を知っていたってことだな。 庶民?もちろん読めもしなかっただろうよ。暗号だな。 妄想ですがね。妄想史も楽しいもんだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年02月20日 14時07分44秒
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