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テーマ:暮らしを楽しむ(388294)
カテゴリ:日本ってなんだ研究
徐福は日本で何をしたか? 徐福は、紀元前3世紀中ごろ(BC278年?BC255年?)斉の、王族の4男の子孫。 現在の江蘇省連雲港市かんゆき県金山郷徐阜(昔は、徐福村)に生まれた。中国で確認済み。 原典は不明だが、インドに7年留学していたともいわれる。 方士。呪術師。祈祷師。薬剤師。占星術。天文学などができた。 超名家の超エリートであったと考えられる。 司馬遷の『史記』によると、始皇帝に東方に不老不死の霊薬があると具申して、3000人の若い男女と多くの技術者と、五穀の種を持って、当方に船出したが、中国に帰らなかったと伝えられる。 紀元前221年に始皇帝が秦を統一して2年後の、BC219年と、BC210年(BC208年?)の2度出発している。 時は、秦末期。戦乱と粛清が続く中で、徐福は、なぜ東方へ旅をしたのか? また、膨大な費用がかかることを 始皇帝は、なぜ2度も許したのか? どうやら始皇帝は、既に丹なども服用していたらしい。 東方の島の占領政策の第1陣だったのか?本当に霊薬を欲したのか? 霊薬を探すだけで、これだけ人数と技術者と物を持つ旅団は必要ないような気がする。 これは、統一後の、次なる秦の侵略政策の一環だったんじゃないのかと思う。
日本全国に徐福伝説がある。 全国の徐福伝説は、日本海側は、青森・秋田・丹後半島。 九州各地と四国太平洋岸・紀伊半島・最後は富士山と、実に広範囲にわたる。 また、徐福が教えたとされることは、テンダイウヤク・行者ニンニクなどの薬草、焼き物、井戸、硯、秦代の半両銭、すりばち、農耕、土木、機織り、捕鯨、医薬、南方の木など多岐にわたる。 しかし、徐福伝説を読むと、徐福は丹を求めることもなく、鉄を探し回ってるわけでもない。 九州のいちき串木野に来た時に冠を捨て、この国の王になると決めたかどうかは知らない。 しかし、武力による侵略ではなく、主に蓬莱山を探し薬草を探している。 後には、住民に耕作・機織り・土木・捕鯨・医薬を教えることに重きが置かれたようだ。 徐福最後の地として、三重県熊野市波田須と冨士山の辺りで亡くなったとする説が有力。技術として焼き物機織りとして、技術が後継されているし、日本にはないビャクシンという暖かい地方の木が、育っていることなどから。 全国に徐福伝説があるのは、徐福の渡来が2度だったことと、一団が4000名ほどの大軍団で、船がいろんなところにたどり着いたことと考えられる。 徐福は、70歳で亡くなったとされるので、BC200年前後には、亡くなっている。 『宮下文書』に含まれる『富士文献』と『海東諸国紀』によると、徐福が、日本に来たのは、孝霊天皇の頃だと書かれているそうだ。 歴史的に実在とは考えられていないが、紀元前215年退位と考えられている。 徐福と同時期なのが分かる。びっくりポン。これおいらの妄想と合ってる。 崇神天皇からが歴史のギアに合ってると思ったが、 その3代前も徐福とともに確認ができた気がする。 紀元前200年でも、徐福はインテリでもちろん字が書けた。 年号も十分理解していたからね。 …それとも後年誰かが時代をあてはめた???
ついでに、これで換算すると神武天皇は、紀元前660年即位。 もちろん縄文時代。 中国で鉄器生産が始まる前。春秋時代の真っただ中。 周の悪政から、鄭・斉・楚が交互に力をふるう戦乱の時代。 逃れてきた人がいたんでしょうか? その人たちの剣は、鋳鉄だったんでしょうかね。それとも銅剣だった?
それより前のスサノオって、いつごろの人だろう。 古事記には、機織りも、酒も、鏡も、田んぼも出てくるんだけどなぁ?? ヤマタノオロチには、酒をいくつもかめに入れてるけどな。 剣で首を切ってるんだけどな。 スサノオ伝説・蘇民将来・天孫降臨・徐福・神武東征・首露王とその子どもたち・卑弥呼 なんか時代が近いんじゃないのという気がするんだが…。 どの順なんだろう??
そうそう、呉の太白の子孫が日本の祖先だって説が、中国にあるってのを思い出した。 以下Wikipedia『太白』より 司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。後に季歴は兄の太伯・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。 6代王の闔閭の時代、呉は強勢となり、名臣孫武、伍子胥を擁し当時の超大国楚の首都を奪い、滅亡寸前まで追いつめた。しかし新興の越王勾践に攻め込まれ闔閭は重傷を負い、子の夫差に復讐を誓わせ没する。夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾践を滅亡寸前まで追い詰める。勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、中原に諸侯を集め会盟したが、その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。紀元前473年、呉は越により滅亡する。この時、夫差は勾践に対し助命を願った。勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとしたが、宰相の范蠡に「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。ゆえに今呉は滅亡しようとしているのです。今、天により越に呉が授けられようとしているのです。何をつまらない情を起こしているのですか」と言われ、和議を蹴った。それでも勾践は夫差を小島に流刑にして命だけは助けようとしたが、夫差はこれを断って自害し、呉は滅びた。 夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。勾践は夫差に負けた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれた。 ちなみに中国では倭人を「呉の太伯の子孫」とする説があり…。 って、いつの時代のこと? 紀元前473年以降ってことだわね。???また謎が出た。
今日はここまで。 旦那が帰ってきたからね。夕飯だぁ~。 紀元前400年よりも前とは考えられないんだが…。 またまた謎が出てきた。 ここんところは、まだ未確認時代だな。
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最終更新日
2016年03月02日 19時27分15秒
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