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テーマ:暮らしを楽しむ(388271)
カテゴリ:日本ってなんだ研究
相棒の逃亡犯から連想する徐福 徐福(その子孫かもしれない)が、富士吉田近辺に住んでいたとして、 Why? この高い山の様子から考えて、守りが固い。逃げ込んでいる。 と考えたのは、相棒の逃亡犯から思いついたこと。 だって、小田原近辺に住んでもいいんじゃない?田んぼもできるし。 徐福は、海岸に近いところで生まれて、住んでる。渡航の船の手配もした。 大陸伝いに移動するのではなく、海路を選んだ。 つまり、海に慣れた民であったと思う。…騎馬系の歴史も文化も十分知っていたが。 それなのに、山の中の富士吉田近辺に住んだわけは、防御中心だったのか? 徐福伝説の地は、海岸沿いばかり。 徐福が来た時に、佐賀・熊本・宇佐・瀬戸内海・大阪・和歌山(紀)・伊勢には、既に国が作られていたのではないか。 だから避けた。東に東に行ったわけだ。 徐福より300年ほど前、紀元前500年ごろの神武の東征図では、 …これは仮定 福岡(宗像)・大分(宇佐)・広島(安芸)・岡山(吉備)・大阪に来てるが、内陸には入れなかった。 熊野に回って、吉野・奈良盆地に入ってる。勢力もここまでなのだ。 神武天皇が通ってないところに、大きな勢力があったと見る。 四国には、別の勢力があった。 山陰にも大きな勢力があった。 奈良・紀州・伊勢にも大きな勢力があった。 真っすぐに近畿を目指したのは、そこに倒したい大きな勢力があったからだ。 それが、神武天皇の后・五十鈴媛命の父、事代主だった。 神武以前の日本No1の大ボスと考えている。 …事代主についてはまた、考えよう。 これだけ何年にもわたる長い遠征をするということは、 自国は、かなりの勢力を持ち、攻撃される心配がなかったということではないか? イワレヒコは、南九州の王になっていた。 …まだ神武ではない。神武というのはのちにつけられた名前。イワレヒコは、九州勢力の暫定リーダーとなっていたのか? …呉王の子孫の狗奴国?熊本説もありかも? 呉国は、米作りの国。 ついでに、西暦100年前後と推定するヤマトタケルの東征図。 神武天皇が制圧した瀬戸内海と九州の制圧に向かってる。 ということは、王の権力はまだゆるいものであったと考えられる。 古事記で、出雲方面に回っているのは、まだこの方面に不安があったからだ。 東北まで行ったか?行かなかったかは、定かではないし、 ヤマトタケルが、一人だったか、複数の勇士だったは、わっかりませ~ん。 でもね。 おいらがネットで調べた桃太郎伝説の最北端は、宮城でした。 宮城には、鉄が採れ、扱う民がいたんです。 …日本の中のカナンを探そう! 現在の宮城県石巻市もと宮城県桃生郡河南町には、金剛山があって、男鹿半島には金華山があるそうです。ここはアテルイで出てきた多賀城に近いです。 宮城県桃生郡河南町には、河南・金剛山・金華山…誰が来てたんでしょねぇ?? 脱線ついでに、宮城の桃太郎伝説は面白いので、読んでください。
桃太郎神社/宮城県桃生郡河南町 その2から引用させていただきました。 その後の桃太郎はね、日本で俺くらい強い者はいないと慢心 鬼は、悪い事をして貯えた物だけれども、あんな若僧に持って行かれてしまった。
桃太郎は毎日酒ばりくらっていたので、体がなまってしまい、
ヤマトタケルが、宮城まで行ったかどうかは分からないけど、桃太郎一族はここまで到達していることは確かだと思います。
さて、昨日は相棒ついでに、信州グルメで思いついた。 よく『秘密のケンミンショー』を観てたが、グルメが違うんだよね。 おやきを食べる地域と五平餅を食べる地域がある。麦と米。 知ってた? どうも、北信濃と南信濃で別れるらしいんだけどさ。 それも混ざらないんだって。 それって、秦から来た人たちと、楚呉から来た人たちの食性の違いなんじゃないかと思ったわけ。 『項羽と劉邦』で、秦を制圧した項羽は、麦食が嫌で、関中を部下に与え、自分は米がとれるところに戻ったって書いてあった。食性は変わりにくいってこと。その作物が穫れるところに住む。 昨日の午後は、これを調べていて、ブログアップもできなかったけどね。
つまり、秦系の人は、麦食・粉食だったらしい。 麦食か米食かは、揚子江辺りで分かれるらしい。 「徐州徐州と軍歌は進む。徐州いよいか、住みよいか。しゃれた文句に振りかえりゃ、お国訛りのおけさ節。髭が微笑む、麦畑。」徐州は、麦だってことね。 徐福は、麦食だったんではないかな? 緑色が羌民族 羌 - Wikipedia 徐福は、羌(キョウ)という民族らしいという説が多い。 羌は、どこか調べた。 羌は、緑色の地域に住んだ。左下から中央部にかけて。 チベットから黄土高原に広がっている。戦いに強い種族だ。 秦は、氐(テイ)という民族で、ピンク色の地域。 氐と羌はすごく近くて、生活様式もかなり近い。 ってことで何が言いたいかというと、彼らは、麦を食べていたってこと。 肉と牛乳もだろうけどね。 秦系の渡来人は、麦ができそうなところに住んだだろうし、 楚呉系の渡来人は、米ができそうなところに住んだだろうという妄想。
信州に戻って、 米系と麦系が住んでたんじゃないかという仮説が浮かんだわけよ。 そば系は、多分麦系の一種。
しかも、米系も、中央構造線で2つに分かれるらしい。 五平餅を完全につぶす系と 半殺しにする系があるらしい。 妄想が広がりすぎて、まとまりのがない話だわね。ごめん。 でもおいら的には面白い。
人は変わらないってことさ。 2500年前の痕跡がどこかにあるはず!! 今日も、妄想史は進む。
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最終更新日
2016年03月05日 11時24分36秒
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