始皇帝は倒れたが、徐福は日本へ渡った?
始皇帝は倒れたが、徐福は日本へ渡った? アーリア人が稲作を知ったのと、日本に稲作が伝わったのは、ほぼ同時だったことに気がついた。米の種類は違ったかもしれないが…。世界は広いようで狭い。 秦の滅亡を調べていて、徐福という人に会った。もともと知ってはいたが、想像上の人だろうと調べたことはなかった。が、しかし、『項羽と劉邦』を読んで、徐福は確かにいたと思えるようになった。史記を書いた司馬遷というのは、秦滅亡から100年ちょっと後に生まれた人なのだ。それも歴史好きな父に教育を受けていた。フィールドワークをして聞き取った中に、徐福の話があるというのは、妄想で無く、現実だったということではないか? 司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述(ウィペディア『徐福』より) 徐福が港を立ったのは、始皇帝が亡くなったころだと推定される。つまり、紀元前206年ごろ。当時の日本は、戦国時代を逃れた帰化人が大量に渡った縄文後期。稲作も行われていた。徐福は、斉辺りの人だったが、薬学を知り・西域・騎馬民族の戦い方・文字・郡県制・官僚支配・法治国家・重さの統一・貨幣・法家・儒家・畑作・米作を知っている人だった。3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、出発したのだ。 当時の日本人には、神様みたいに見えたのではないかな?徐福が到着してからの日本は、黒船がついた時みたいに、飛躍的に世界に近づいたのではないかな?これまで、少しずつ伝わっていた稲作や道具も爆発的に広がった。つまり、文明開化だわね。そして、正式な弥生時代となった。今まで縄文的に平野に暮らしてきた人たちは、命令する人とされる人に分かれ、富を奪い合うようになった。そして、大きな国ができて、戦うようになった。 …妄想だけどね。 そのあと100年ぐらいで、紀元前100年ごろ日本は、100の国に分かれていたそうだから、その中の一つにはなっていただろう。100の国の1つが、薬学を知り・西域・騎馬民族の戦い方・文字・郡県制・官僚支配・法治国家・重さの統一・貨幣・法家・儒家・畑作・米作を知っていたら、最強でしょうね。紀元前1世紀ごろに 北陸・東海・西道・丹波に四道将軍を派遣というのも、ありですよね。するとこのチームが、桃太郎に一番近いかも? さて、徐福はどこに着いたのか? ・・・to be continued. ≪日本から見た世界≫ 赤字は日本の出来事紀元前800年ごろ アーリア人青銅器についで鉄器を使用し始める。 先住民から稲作を知り農耕生活に。紀元前800年ごろ 九州北部に稲作が伝わる。紀元前770年~403年 春秋時代 戦争の時代紀元前700年ごろ インドでのアーリア人の国家は16国家となる。その一つが釈迦の国マガタ国。紀元前700年ごろ 秦が国になる、領土と戦力をつけたということ。紀元前600年ごろ アーリア人インダス川に移動。いくつもの都市国家。釈迦の時代。 バラモン教と身分制度カーストを作る。紀元前600年 縄文晩期終末 佐賀県唐津市菜畑遺跡・福岡県糸島郡曲り田遺跡・福岡市有田遺跡 朝鮮半島系の支石墓・石剣などを発見。 九州北部四国などに渡来人がきた。紀元前403年~221年 戦国時代紀元前400年ごろ 縄文後期 大量の渡来人紀元前332年 アレクサンドロス大王により古代エジプトが滅ぼされる。紀元前300年ごろ マウリヤ朝アショカ王インド統一。兄弟家来を大量に殺したとされる。 統一後熱心な仏教徒となる。 紀元前221年 秦中国全土を統一する。郡県制・文字・重さ貨幣の統一。 焚書坑儒・匈奴と戦争。15年で滅びる。 徐福が日本へ紀元前206年 秦が滅び漢ができる。漢は、400年続いた。 ゆるやかな統治。郡県制と封建制を取り入れた。紀元前109年 7代武帝 儒学を国学に。塩鉄酒を独占販売に。紀元前100年ごろ 日本は100の国に分かれる。 使者や通訳が往来していた。お互いに情報を把握。 ?北陸・東海・西道・丹波に四道将軍を派遣紀元前109年 7代武帝 儒学を国学に 塩鉄酒独占販売。紀元前109年 7代武帝 儒学を国学に 紀元前91年ごろ 司馬遷が史記を完成させる。生年BC145年?BC87年紀元前30年 クレオパトラ7世自殺 紀元前0年ごろ 日本でも青銅器(銅矛)が福岡で作られた。人骨の傷西暦9年 漢王朝が滅ぼされる。西暦25年 後漢末期戦乱と食料不足 緩やかな支配へ西暦57年 倭奴国王 後漢から金印を授かる。西暦107年 倭の国王 後漢へ奴隷を送る。 ?景行56年蝦夷平定?西暦178年 鮮卑族倭人を捕まえ、移住させ魚を取らせる(後漢書)西暦188年 このころ卑弥呼が邪馬台国をまとめる。西暦199年 金首露王死西暦208年 赤壁の戦い西暦220年 後漢滅亡 魏の時代となる。西暦239年 卑弥呼魏へ使い。西暦247年 邪馬台国と狗奴国の紛争 卑弥呼没す。倭の騒乱。西暦252年? 百済尚古王使者に七支刀を献じる(石上神宮) 369年?西暦266年 倭女王晋に使い。西暦280年ごろ 陳寿が三国志を書いた。西暦391年 倭軍が朝鮮半島に出兵、高句麗と戦う。