【暫定】琉舞と沖縄第32軍司令部壕跡
首里城公園内で琉球伝統舞踊のエギジビジョンをやっていました。宮廷風のゆったりした踊りでございました。じっくり1時間ほど楽しませて頂きました。はい。これを見た後に、同じく首里城公園内にある旧帝国陸軍第32軍司令部壕跡を訪れました。第32軍は陸軍部内では「腰抜け」とか「臆病」とかの悪罵を浴び続けた部隊ですが、米軍側からは最高の評価を受けた部隊でした。高級参謀の八原博通が有能なリアリストで、参謀本部の言うことを聞かずにかってに『戦略持久』という概念を打ち出し、可能な限りの戦力の経済的活用を図り、米軍を苦しめました。大戦後半の帝国陸軍部隊の行動は戦闘というより集団自殺みたいなものが多くなりましたが、沖縄と硫黄島は最期まで戦術原則に忠実でした。沖縄で戦闘指導に当たった八原博通(大佐)も硫黄島で指揮を執った栗林中将も、帝国陸軍では非主流のアメリカ留学組でした。米軍チックなプラグマティックな思考で、島の最終的な防衛を諦め、目的を日本軍兵力の完全な喪失と引き換えに、一人でも多くの米兵の殺害に置きました〔日本軍の思考だとこの辺が限界です。中国やベトナムなら戦傷者や麻薬中毒患者の量産を目指したでしょう〕。この命題を実現するために水際陣地の放棄〔上陸前の艦砲射撃で無力化されるので意味がない〕・飛行場防衛の放棄〔維持したところでもう航空兵力が無い〕・全島防衛の放棄〔防衛拠点を絞った方が自然の要害を防衛に活用しやすい〕などの施策を採りました〔当時の日本軍指揮官でこういう発想の転換を図れる人物は稀有でした〕。このような対応は、帝国陸軍部内では消極的であると批判されました。色々諦めた代わりに、島の要地に濃厚な地下陣地を建設するとともに、大口径砲の統合運用を行い、濃密な火線を形成し、徹底的に抵抗したのでした。米軍は最終的には島を落としますが、物凄い犠牲とタイムスケジュールの遅れを強いられました。沖縄の場合は、嘉手納飛行場を諦め、本部半島以北を諦め、首里前面の重層陣地で抵抗し、米軍に猛烈な出血を強い、敵の本土攻略を遅らせました。素晴らしい戦果を挙げたと言う評価は有り得ます。一方で沖縄第32軍には批判もあります。第一の批判は民間人の被害が余りに大きかったことです。対馬丸事件などの影響で疎開が不十分だったなどの事情はありましたが、私は、膨大な市民の生命が失われた本質的な原因は、首里陣地からの撤退の際の32軍の意思決定にあると思っています。八原博通が、戦後に人に沖縄行きを勧められても「県民に合わす顔が無い」と言って、二度と沖縄の土を踏まなかったそうですが、彼の気持ちはよく解ります。首里前面陣地の維持が絶望となった時に、勇ましい空威張り系のスタッフはバンザイアタック〔自殺攻撃〕に傾きました。八原博通は普段からペシミスティックな思考の戦術家で、事態が深刻化しても、合理的な思考を失わずに「喜屋武半島への後退と戦闘継続」を立案しました。米兵を一人でも多く傷つけ、米軍を一日でも長く沖縄に釘付けにすると言う命題に忠実な策でした。不幸なことに日本軍の後退経路が沖縄県民の避難ルートに重なってしまったのです。合衆国海軍はありったけの砲爆撃を喜屋武半島に叩き付けました。沖縄の非戦闘員の被害の多くは喜屋武半島で生じたのでした。この時の米軍の砲爆撃の凄まじさをして「鉄の暴風」とこの地では呼んでいます。台風の雨粒のように弾が降って来たと言う意味です。筆舌に尽くせぬ被害が発生しました。ひめゆりもこの時に発生しました。西原村の村民は6割が殺害されました。昭和20年4月に沖縄本島に居た人の3~5割が殺害されてしまったのです。非常に評価が難しい。難しすぎる戦いでした。5月中旬まで32軍比較的にクリーンな戦争をしていました。しかし、首里撤退以降はダーティーな戦争になってしまいました。一方で喜屋武半島でも、32軍は、バックナー将軍を戦死させる等の大きな戦果を挙げました。米軍に「日本本土上陸を敢行すれば百万単位の戦死者が出る」と思わせることに成功しています。日本の降伏が、実態的には対米単独降伏であったいことが、戦後の日本の針路を決定付けますが、その大きなファクターに、沖縄と広島と長崎があったと考えています。沖縄や硫黄島の英雄的な抵抗がなければ、日本本土攻略はさらに早まり、米軍は日本本土で地上戦を行った可能性が出てきます。そうすると、物凄い死傷者が出る、とても米国一国で支えきれない、ソビエト連邦を引き込もうという線が出てきてしまいます。沖縄や硫黄島で時間を稼ぎ、広島と長崎で核攻撃を受けて米軍による単独占領で戦後をスタートできたのかも知れません。(核攻撃の成功で、日本政府も降伏やむなしに傾きました。日本政府があの段階で降伏したので米軍の単独占領になりました。もっと頑張れば、やはり赤軍の出番が生じたた可能性が出てきます)現在の日本の繁栄は、沖縄の犠牲者の屍の上にある、と考えることもできます。沖縄が、本土の捨て石となるよう求められ、八原博通が忠実にそれを実現したという見方も出来ると思います。沖縄の地下濠は小禄(現在の行政区分では豊見城市)の海軍司令部壕も有名です。この濠から、かの有名な電文『沖縄県民かく戦えり』が打電された訳です。この中で大田少将は「後世沖縄県民に格別の高配を賜らんことを」と述べますが、実際は高配どころか、戦後も米軍統治下に取り残され、高度成長の恩恵にも預かれず、捨て石であり続けた訳です。現代日本は、沖縄県(と広島市と長崎市)には借りが残っている、ということなんでしょうね。 →著作権も切れているので引用しておきました。首里城公園内の薄暗い第32軍司令部壕の入口に立って、ぼんやりと色々考えてしまいました。この壕で、八原博通は指揮を執っていたのです。沖縄県民にとっては、まだ32軍司令部は戦跡とか史跡になりきって居ないようでした。何の表示もありませんでした。やはり夏になると、戦跡地に来たくなってしまいます。沖縄戦の犠牲者20万余柱に合掌。【追伸】沖縄32軍の司令官は牛島満、参謀長は長勇でした。しかし、作戦を起案したのはほとんど高級参謀の八原博通でした。なお、長勇と八原博通は大変不仲であったと伝えられています。これも八原批判の材料のひとつになっています。【資料】大田電文「沖縄県民かく戦へり」全文沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部もまた通信の余力無しと認めらるるにつき、本職県知事の依頼を受けたるにあらざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急ご通知申し上ぐ。沖縄県に敵攻略を開始以来、陸海軍方面とも防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど省みるに暇無かりき。然れども、本職の知れる範囲においては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身をもって、軍の作戦に差し支え無き場所の小防空壕に避難、なお砲爆下をさまよい、風雨にさらされつつ乏しき生活に甘んじありたり。しかも若き婦人は率先軍に身を捧げ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬込隊すら申出るものあり。所詮敵来りなば老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵すでに出発し身より無き重傷者を助けて共にさまよう、真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思われず。さらに軍において作戦の大転換あるや、自給自足夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。これを要するに陸海軍沖縄進駐以来,終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられて、ご奉公の一念を胸に抱きつつ遂に・・・・・・(不明)・・・報われることなくして、本戦闘の末期を迎え、実状形容すべくもなし。一木一草焦土と化せん。糧食六月いっぱいを支えるのみなりと謂う。沖縄県民かく戦へり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを。