伊那高遠の石碑列
【伊那高遠の石碑列】 これも伊那高遠の村々で撮った写真です。一枚目の写真に写っているのは、とある村にある諏訪神社の入口付近です。ここに不思議な文字列が彫られている石碑があったのですが、それに関するマツリが会津のある村で行われています。それで、伊那高遠と会津の関係を再確認することが出来ました。 2枚目の写真の左後ろに写っているお堂は観音堂ですが、この写真を撮っているところから、路地を上がっていくとこの村のお寺があるのですが、そのお寺は日蓮宗のお寺です。ですから、この写真に写っている観音堂は、お寺とは関わりなく建てられたと考えられます。 3枚目の写真は藤沢川沿いの国道を車で走っていくと、その道路脇に並べられている石碑群です。「庚申」碑や「甲子」碑だけでなく、「馬頭観世音」と彫られた石碑もありますし、「道祖神」と彫られた石碑もあります。こうした観音堂や道祖神に関しては、『会津藩家世実紀』に不思議な記録があります。三十三観音の「順礼」が寛文六年(1666)に、保科正之公によって禁止されています。また、延宝三年(1675)には「左儀長焼候儀可為停止旨被仰出」と記されていますが、この時の会津藩主は保科正経です。 しかし、何故三十三観音の順礼が禁止なのか、サイノカミが何故禁止なのかに関しては、『会津藩家世実紀』も『新編会津風土記』も沈黙しています。また、元禄四年(1691)には、会津のとあるお寺が「太子寺宗」から曹洞宗に転宗しているのですが、これは藩が命じたのではなく、太子寺宗の「お寺」が申し出たからだと記されています。宗門人別制度の檀那寺は天領では幕府が、各藩ではそれぞれの藩主が最終的に決定しました。