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カテゴリ:本・読書
最近土日のアルバイトが出来なくなってしまった。
金銭的な部分を含めて残念なことである。 以前は良く倉庫の品出しのアルバイトをやっていたのだが考えてみると年明けてからは一度もお呼びがかからなかったり時間的にあわなかったりで一度も顔を出していないのだな。 で何をやってるかというと近所の古本屋から2・3冊買って来て土日で読破していたりするわけだ。大概が昔読んでいて途中で投げ出したような古典ばかりなのだが。 改めて得たものは余りなくここで書いたりすることもない。 というか自分は映画や音楽のことはいくらでも書けますがいわゆる「書評」の類は苦手なんす。 真面目な話、音楽についての文章は批評として成立するし、映画についてもそうだ。多分美術全般についてはそうなのだが、唯一、文章である小説に対して、同じ文章である書評というものは果たして批評として成立するのかという避けては通れない命題があるような気がしてならない。 ぶっちゃけ、小説に対する最大の批評は小説というスタイルでしかないと思うからだ。 小説家が文芸評論家に対して辛らつになるのもしかたのない話で、多くの文芸批評がまず文章として批評する小説よりも劣っていてはどうにもならない。批評以前の問題である。 高校一年の時の担任が詩集を出しているような詩人だった。 夏休みの宿題の読書感想文を提出したら100点満点中35点なんてとんでもない点数をつけられて、評として「対象物を冷静な目で見ること」と書かれててものすごいショックを受けたことがあったのだ。 中3のとき県コンクールで表彰されたこともあって自分は文章を書くことは得意にしていたんですけどねぇ。 そのダメ点を貰ったというのがこの「田園交響楽」の感想文だったのだ。 いわば自分にとっての恥辱の歴史だったりする。 というか改めてこんなものに手を出したの田園交響楽を原作の昼ドラ「緋の十字架」を見ててそんなことを思い出したからで、ときどき思い出したように録画されているものを見ているうちに「原作ってどんなストーリーだっけ?」という疑問が浮かび、古本屋に並んでいたので(100円!)ついでに買ってしまった。 読んでて気分の良くない小説であった。それは自分もかつて同い年の少女を自分の父親と同じくらいの男(教師)と争って破れた過去を思い出したからだ。 というか忘れていたふりをしていたのだがどうやら当時自分は(当然のことだが)少年→青年に肩入れするような論旨だけで感想文を書いたのであろう。そりゃ低い点もつけられますわな。あは。 で自分が今度はその中年過ぎの男になって19世紀末の時代をそのまま引きずったようなキリスト教と身分制度の名残でもって生活している人たちの心情のようなものに肩入れできるかというとやっぱりダメなものはダメなんだな。 カトリックという制度によって命を救われた少女の命を奪ったのもまたカトリックであった。おそらくは視力の回復という手立てがなかったとしてもいずれ少女は自滅への道を歩んでいっただろう。という作品世界→キリスト教批判は発表当時としては斬新でありそれなりの必然もあっただろうが。 2006.02.02 都合により移転、再録 『人生の一日』2006.01.27 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006年02月02日 21時07分21秒
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