ディープ・パープル第三期 あれから30年が経った。
前にも書いたが、今、CDの在庫が約2,000枚ほどある。「在庫がある」なんて言い方をするとなんだか業者みたいだが(笑)。なんでそんなに持っているかといえば、その昔、閉店したCDレンタル店の在庫CD(アルバム)を友だち数人とでそっくり買い受けたからだ。「大人買い」にもほどがある、というやつだな。その中にはそれまでほとんど聴いた事のなかったディープ・パープルの第三期以降のアルバムが揃っていて、ちょっとしたきっかけがあって、生まれて初めて第三期以降のDPをじっくりと聞き込んでみたのだ。そのきっかけというのは「ホワイト・スネイク」の来日であり来仙なのだが。で、そのホワイトスネイクのライブを見に行ったという人からいろいろと話を聞いた。ひとことで言えば最後はオールドDPファンにむけたナツメロ大会みたいだった、ということらしい。「かまたさんも聞きに行けばけっこうよろこんだんだんじゃないですかねぇ」といわれた。「俺はディープパープルなんてほとんど聴いてねえよ。」というと「えっ?」という顔をされたが。しかし30年以上が経って、40才過ぎてディープ・パープル(以下DP)を新たに聴き出す奴も珍しいのだろうけど。実をいうと、これまで黄金期といわれている第二期DPでさえも熱心に聴いていたというわけでもない。「今まで、金出して買ったDPのアルバム、何があったのかな」と考えて見たのだが「24カラット」というベスト盤以外、金出して買った記憶がないのだ。あとは友だちからレコードを借りて、カセットテープに録音したものを聴いていたということだ。とはいえ、DPの第二期の有名曲「ハイウェイ・スター」「ブラック・ナイト」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」などのギターのリフやソロパートは耳になじんでいたりする。それは、弟が隣りの部屋で弾いていたのを約3年間ずっと耳にしていたからなのだが。もし、自分が無意識にせよ意図的にDPから遠ざかっていた理由があるとすれば、それは、その弟の下手糞なギターのせいかもしれない。DP第三期というのはスタジオ・アルバムでいえば、「紫の肖像(BURN)」と「嵐の使者(STORM BRINGER)」の二枚の間を指し、リッチー・ブラックモアの後釜にトミー・ボーリンが加入した「カム・テイスト・ザ・バンド(COME TASTE THE BAND)」からは第四期と呼ばれているということさえ今回ライナー・ノーツを見て初めて認識したくらいだ。(忘れていただけかもしれないが)。これでも昔輸入レコード店で働いていた経験を持つ人間なのだが。てっきりDPの活動時期というものは歴代の三人のボーカリストで区切って、第三期(デヴィッド・カヴァーデイルのいた時期)までしかないと思っていたのだ。ディープ・パープルをごく大雑把に色分けしてしてしまうと、キーボード中心の音作りをしていたバンドだった第一期から、キーボードサウンドが後退し、ギター中心に方向転換した第二期、第三期と言えるのだろう。が、今回自分の頭の中で整理してみたのだが、結局のところDPとはあくまでもジョン・ロードのキーボードを中心にしたバンドとして始まり、紆余曲折はあったものの、最後再びそこ(ジョン・ロードのキーボードサウンド)に帰結したバンドだという印象を持った。最後に入ったギタリストのトミー・ボーリンは「俺は人気バンドのディープ・パーブルに加入しちゃったぜ!」みたいな高揚した気分のままで結局何も出来ないで役割を終えちゃった、みたいな人だったのかもしれない。考えてみれば気の毒な人である。D・カヴァーデイル(の歌い方)もそうかもしれない。第三期の二枚ではリッチー・ブラックモアに対する遠慮のようなものがあるような気がする。ボーカリストとしての力量もあるのだろうが。当時はよく理解できなかったが、「ン~」という溜めを作っての歌い方は、良くも悪くもバンドの顔であった前任者イアン・ギランとの違いをアピールするための必死の方法論じゃなかったのかと。とはいえカヴァーデイルが得をしたのは、つかの間とはいえリッチー・ブラックモアと活動をともにしたこの時期があったからではないかと思う。これが後年ホワイト・スネイクとして長い期間(DPよりも長いんだ)活動できた礎(いしずえ)になっているはずである。要はビック・ネームのギタリストとの共演する術をこのときに学んだんじゃないかなと思うのだ。再評価、というのではない。30年経ってからこうして新たに聴いたからこその感想になるのだが。逆に、これは「タラレバ」にすぎないのだが、「イアン・ギラン・バンドにトミー・ボーリンが加入していたならどんな展開になっていたのだろう」そんなことも思った。まあ多分かなり躁鬱の激しい音になっただろうけれど。