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2009年06月06日
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テーマ:たわごと(26906)
カテゴリ:四角いものから
 電車で鼻をほじるのも、路上に痰を吐くのも一昔前は「ふすま文化」ゆえの「私」の肥大化という説明で納得してきた。しかしこのところ「私」の限定ではないかと考えている。往来でのちゅーや、化粧、飲食の記事に、親しい仲間については人だけど高々移動で出くわす人間は「モノでしかないから」というコメントを見たからだ。

 テレビの世界ではネタや受けのためなら既に人はモノで、最近はテレビでもジャーナリスト、報道局長待遇の肩書きを持つ人が「バカ」や「死ね」を平気で口にしている。熱湯芸のお笑いをヒントに実の娘を熱湯につけるたのも、蚊を殺すようなものだと8人を殺傷するのも本当に本人たちにとっての実感なんじゃないだろうか。心の闇でも、育成環境でも何でもない。分かりやすい現実と、自分の理解や共感の及ぶ範囲が認識される世界だからこそ、無言の圧力などの「空気読め」も及ばない。共感の肥大と個が個で追求されるだけだ。言い換えれば、自分以外はバカだし、理解できないものは「キモイ」の切捨てでそれ以上の意味は持たないから、世界観の否定に際しては再構築のため修正しようと努めるか徹底的な殲滅に走ることだ。

 事の是非は置き、いずれは限定されるこの共感がこれからの新しい同質性なり共通意識になっていくのかもしれない。そう思った。





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最終更新日  2009年06月07日 11時20分29秒
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