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「神のみこころと人の願い」 2020年5月17日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒ 東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2019年2月1日放映「神のみこころと人の願い」 「神のみこころと人の願い」 甲斐愼一郎 ルカの福音書、22章42節 「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」 (ルカ22章42節)。 このイエスの祈りから「人の願いと神のみこころ」について考え てみましょう。 一、人の計画と神のみこころ 箴言に「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだ けが成る」(19章21節)ということばがあります。「主のはかり ごと」とは「主のみこころ」のことです。 私たちはだれでも、将来に対して望みを抱き、自分なりに様々な 計画を立てて歩んで来たにちがいありません。しかしその希望や計 画の中には良い志だけでなく、野望や野心もあったのではないでし ょうか。私たちの希望はすべてかなえられたでしょうか。私たちの 計画通りにすべての物事が運んだでしょうか。答えは「否」と言わ ざる得ません。 私たちが正直に自分の半生を振り返ってみるなら、私たちの心に 多くの計画があったとしても、野心や野望という良くない計画や身 勝手な願いは実現せず、主が良いとみられることしか成就していな いことを痛感するのではないでしょうか。 二、人のつぶやきと神のみこころ エジプトを脱出して荒野を放浪していたイスラエル人について、 聖書は、「民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを 聞いて怒りを燃やし」と記しています(民数記11章1、2節)。 「つぶやき」は、一般的には不平や不満や文句と同じような意味 で使われています。それは身勝手で不当なものですが、一種の願い です。また「祈り」も神への願いであるということができます。で すから人間というものは、祈りであれ、つぶやきであれ、心の願い に満ちている者であることがわかります。 私たちの心が神と正しく結びついているなら、その心の願いは祈 りとなって表れますが、神より離れているなら、それはつぶやきと なって表れます。言い換えれば、神に造られた人間は、神との交わ りの中にありましたが、堕落したことによってその祈りがつぶやき に変わってしまいました。ですからつぶやきは、偽物の祈りである ということができます。 私たちのつぶやきは、それが独り言であれ、人に対してであれ、 みな神に対するつぶやきになります。イスラエルの民は、「この荒 野で死んだほうがましだ」とつぶやきましたが(同14章2節)、 神は、「わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとお りをしよう」と言われ、彼らは、そのつぶやきのとおりに、死体と なってこの荒野に倒れたのです(同14章28、29節)。神は、私た ちがあまりにも貪欲で、悪いと知りつつ強引に身勝手な願いを通そ うとするなら、そのとおりにされることがあります。これを許容的 な「神のみこころ」と言います。これは放任という恐ろしい神の刑 罰なのです。 三、人の願いと神のみこころ 聖書は「主は彼らの願いをかなえたまいしかど、そのたましいを やせしめたまえり」と教えています(詩篇106篇15節、文語訳)。 イスラエル人は、その激しい欲望が満たされ、願いはかなえられま したが、そのたましいはやせ衰え、からだは疫病に打たれて死んで しまいました(民数記14章33、34節)。 人間は、自分の心や霊性が向上することよりも、自分の思いどお りに物事が運ぶことのほうを願いやすいものです。しかし人間は、 自分の身勝手な願いどおりに物事が運ぶことによって、かえって心 が堕落したり、霊性が低下したりし、反対に自分の身勝手な願いど おりにならないことによって、悔い改めて神に立ち返り、心や霊性 が向上するのです。 人間の願望は、つぶやきに代表されるように、自分でも気がつか ないほど不純で身勝手なものです。ですから私たちは、自分の願い がかなえられたり、自分の思いどおりに物事が運ぶことを願ったり するのではなく、自らの心や霊性が向上することを求め、主のみこ ころのとおりにしてくださいと祈ることが何よりも必要で、大切な ことなのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
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Last updated
2020.05.16 18:06:18
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