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東京フリー・メソジスト教団付協力牧師 甲斐慎一郎 説教要約

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2020.06.13
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カテゴリ:カテゴリ未分類
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「隠れたものと現れるもの」 2020年6月14日​
インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東
⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。
2018年5月11日放映「​神の謙遜と人の謙遜​」
​「隠れたものと現れるもの」​
          甲斐愼一郎
            ルカの福音書12章1~7節
  「おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠され
ているもので、知られずに済むものはありません」(2節)。
  これとほぼ同じ内容の言葉が、他に3回も記されています(マタ
イ10章26節、マルコ4章22節、ルカ8章17節)。しかし何をたと
えているのかということを前後の文章、すなわち文脈から意味を判
断するなら、一つ一つに違いがあるようです。それぞれの言葉から、
「隠されていても、必ず現れてしまうもの」について考えてみまし
ょう。
  一、隠されていても、必ず現れてしまうもの――罪(ルカ12
章2節)
 
  この箇所において隠されているものとは、心の中の秘密や内緒の
出来事を指していますが(3節)、1節にパリサイ人のパン種であ
る偽善について記されていることから、ここでは罪について述べて
いるのでしょう。
 パウロは「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だ
れの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになり
ます」と言っています(第一テモテ5章24節)。罪は、いつまでも
隠し通せるものではありません。たとえ人の前で隠すことができた
としても、神に前において隠すことは不可能です(ヘブル4章12節)。
  このように罪は、決して隠せるものではなく、必ず発覚してしま
うものであることを知ることは非常に大切です。なぜなら人が悪い
ことをすることの理由の一つは、罪を隠すことができると思うから
です。
 聖書は次のように教えています。
  「自分のそむきの罪を隠すものは成功しない。それを告白して、
それを捨てる者はあわれみを受ける」(箴言28章13節)。
  二、隠されていても、必ず現れてしまうもの――真理や善行
(マタイ10章26節)
 
  この箇所において隠されているものとは、神の啓示によってのみ
分かる真理のことを指していますが(27節)、この章の内容が12
使徒の派遣の説教であることから、真理とともに神に対する良い行
いや奉仕について述べているのでしょう。
  パウロは前に述べた言葉を続けて、「同じように、良い行いは、
だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠
れたままでいることはありません」と言っています(第一テモテ5
章25節)。
  このように真理は、最後には必ず悪に打ち勝つものであるという
ことを知ることは非常に大切です。なぜなら、もし私たちがこのこ
とを信じなければ、真理に従うことによる苦しみに耐え切れず、悪
と妥協して罪を犯し、堕落してしまうからです
  三、隠されていても、必ず現れてしまうもの――福音(マルコ4
章22節、ルカ8章17節)
 
  この箇所における隠されているものとは、これらの章の内容が天
の御国のたとえ話を教えていることから、「神の国の奥義」(マル
コ4章11節、ルカ8章10節)のことを指しているようです。
  パウロは、福音のことを「世々にわたって長い間隠されていたが、
今や現されて」と述べ(ローマ16章25、26節)、また他の箇所に
おいても福音の中心であるキリストのことを「多くの世代にわたっ
て隠されていて、いま神の聖徒たちの現された奥義」と言っていま
す(コロサイ1章26~28節)。
  福音の中心はイエス・キリストであり、またキリストの十字架で
す。私たちはキリストの十字架を仰ぐ時、そこに人の計り知れない
罪の深さとともに、神の計り知れない愛の深さを見るのです。なぜ
なら十字架は、いままで隠されていたすべての罪が暴露されて罰せ
られるとともに、いままで隠されていた神の愛が惜しみなく現され
て罪人を救うものだからです。
甲斐慎一郎の著書→​説教集
久米小百合氏司会「本の旅」→「​聖書の中心的な教え​」
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Last updated  2020.06.13 22:08:32
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