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「父と子の交わり」 2020年6月21日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒ 東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2013年5月28日放映「父と子の交わり」 「父と子の交わり」 甲斐愼一郎 ローマ人への手紙、8章14~17節 このローマ人への手紙の8章14~17節には、「子」または「子ど も」という言葉が各節に、そして「父」という言葉が二回(アバと はアラム語で父という意味)記されています。 そこで、この父と子という観点から、聖書が教えているキリスト の救いとは、どのようなものか、また真のキリスト教とは何かとい うことを考えてみましょう。 一、肉体の苦行 およそ宗教と名のつくものには、何らかの形において、肉体の苦 行というものがあります。その内容を、大ざっぱに述べるなら、次 のような四つです。 1.様々な欲望を自ら断つ禁欲です 2.肉体を苦しめる行為をすることです 3.自らの肉体を痛め、傷つけることです 4.自らの生命を死に至らせることです キリスト教においては、第一のものに相当する断食があります。 しかしこれは、神に近づくための一つの手段であり、決してこれ自 体を目的としているのではありません。 聖書は、神の宮である肉体を、いたずらに苦しめたり、傷つけた りしてはならず、かえって、その「からだをもって、神の栄光を現」 さなければならないと教えています(第一コリント6章20節)。 使徒パウロは、「すがるな。味わうな。さわるな」というような 定めは、「肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、 肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」と述 べ(コロサイ2章21、23節)、肉体の苦行によっては、決して真の 救いは得られないと教えています。 二、心の修行 次に宗教を心の修行と考えている人々がいます。これをキリスト 教に当てはめるなら、次のようになるでしょう。 1.ある人々は、キリスト教とは、理詰めで神の存在を信じ、た だ聖書を読んで、神の教えを学ぶことであると考えています(知性 的な面)。 2.ある人々は、キリスト教とは、信じることによって神を感じ、 ただ神の愛に感動して生きることであると考えています(感情的 な面)。 3.ある人々は、キリスト教とは、すべての悪や罪をやめ、ただ 神に仕えて、善行と奉仕に励むことであると考えています(意志的 な面)。 キリスト教を、このように考えている人は決して少なくないでし ょう。それぞれキリスト教の一面を表しており、真の救いを受けた 結果としてこのようになります。しかし、たとえどれにも片寄らず、 この三つのものに均衡が取れて備わっていたとしても、これは心の 修行であり、真の救いではありません。 三、霊の交わり 聖書が教えている罪からの救いは、次のような三つの面がありま す。 1.「義と認められること」です 2.「新しく生まれること」です 3.「神の子どもとされること」です 罪を悔い改めて、キリストの十字架は私の罪のためであると信じ る者は、義と認められ(すなわち罪を赦され)、新しく生まれるだ けでなく、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が…… あかししてくださ」り、私たちは、この御霊によって「アバ、父」 と呼ぶことができるのです(15、16節)。 私たちは、この御霊によらなければ、神をほんとうの意味と内容 と資格をもって「天のお父様」と言うことはできません。「御霊の あかし」は、父の側から子の側への語りかけであり、「アバ、父」 は、子の側から父の側への語りかけです。ここから父と子の霊の交 わりが始まるということができます。この罪から救われた者だけが 持つことができる父と子の交わりこそ、キリストの救いです。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
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Last updated
2020.06.20 16:07:50
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