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「神の歓心と人の歓心」 2020年8月2日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東 ⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2018年9月4日「生物が生きるために必要な創造の六日間」 「神の歓心と人の歓心」 甲斐慎一郎 ガラテヤ人への手紙、1章1~10節 「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、 でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょ うか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキ リストのしもべとは言えません」(10節)。 このみことばには、神を喜ばせることと人を喜ばせることについ て記されています。この箇所において人を喜ばせるということの第 一義的な意味は、聖書が教えている「信仰による救い」を語るか、 それともユダヤ主義の教師たちが教えている「律法による救い」を 語るかという教えに関するものです。 しかしここでは一般的に、なぜ「人を喜ばせようとしてではなく ……神を喜ばせようとし」(第一テサロニケ2章4節)なければな らないかということについて考えてみましょう。 一、人を喜ばせる(人の歓心を買う)こと 人の歓心を買おうとしたり、人に取り入ろうとしたりすることは、 なぜいけないのでしょうか。 1.人の罪深い要求に応えることになるからです 罪人は、「健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良い ことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師た ちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ」る者です (第二テモテ4章3、4節)。ですから罪人の要求に応えて人を喜 ばせるなら、私たちは神に背くことになります。 2.人の好みに合わせることになるからです 好みとは、相手や対象物に対する客観的な価値判断ではなく、道 徳的な善悪とは関係のない好き嫌いです。人は、自分の好みに合っ たものを喜びますが、その好みは人によってみな違うので、私たち は、人の好みに合わせるなら、不公平になるだけでなく、人を差別 したり、偏愛したりすることになります。 3.人の前で生きることになるからです 「私たちの心をお調べになる神」(第一テサロニケ2章4節)を 忘れて、人を喜ばせようとするなら、私たちは、ただ人の前に生き る者になります。このような人は、人目のない隠れた所において何 をするか分からず、また人を喜ばせることにかこつけて、自分を喜 ばせる偽善者になってしまうでしょう。 二、神を喜ばせる(神の歓心を買う)こと それでは、なぜ神のみこころにかない、神を喜ばせることが必要 なのでしょうか。 1.神の正しくて、聖い要求に応えることになるからです 神は、決して悪を喜ばず、常に正しく、聖いことを喜ばれる方で す。ですから私たちは、神を喜ばせようとする時にのみ、神のよう に「義を愛し、不正を憎」者になることができるのです(ヘブル1 章9節)。 2.真理に歩むことになるからです 私たちは、神を喜ばせようとする時にのみ、自分の好みによって 人を差別したり、偏愛したりすることなく、「何が良いことで、神 に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知」り(ローマ12章 2節)、「真理に歩」むことができるのです(第三ヨハネ3、4)。 3.神の前で生きることになるからです 神を喜ばせようとすることは、人目があってもなくても真理に歩 むことであり、それは「隠れた所で見ておられる」神(マタイ6章 4、6、18節)の前に生きることです。 主は、「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めない あなたがたは、どうして信じることができますか」(ヨハネ5章44 節)と、ただ人の歓心を買おうとするなら、信じることはできない と教えられました。 それでは、神を喜ばせるなら、人のことなどどうでもよいのでし ょうか。そうではありません。私たちは、心から神を喜ばせようと するなら、神のみこころにかなうので、人々の正しい要求に応える ことができますが、ただ人を喜ばせようとするなら、神のみこころ にかなわないので、人々の正しい要求に応えることができないので す。
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Last updated
2020.08.01 23:16:04
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