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「神の奴隷と罪の奴隷」 2020年8月16日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒ 東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2018年11月17日放映「かけがえのない人生」 「神の奴隷と罪の奴隷」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、7章22、23節 「自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。あ なたがたは代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはい けません」(22、23節)。 この御言葉の前半にはキリストに属する奴隷、すなわち神の奴隷 について、後半には人間の奴隷について記されています。そこで、 「キリストに属する奴隷」とは、どのようなことなのか、また「人 間の奴隷となってはいけません」とは、どのような意味なのかとい うことについて聖書から学んでみましょう。 一、三種類の奴隷について 聖書は、奴隷について次のような三種類の奴隷がいることを教え ています。 1.強制的(または義務的)な奴隷 これは、文字通りの奴隷のことで、経済的に、または身分や立場 の上で拘束され、自由がない状態のことです。 2.精神的(または霊的)な奴隷 これは、経済的、また身分や立場の上では自由ですが、その心が、 ある人間やある物事の「虜(とりこ)」になっている状態です。こ れには、神に心を奪われている良い場合と、「罪を行っている者は みな、罪の奴隷です」という悪い場合とがあります(ヨハネ8章34 節)。パウロは、「キリストは、自由を得させるために、私たちを 解放してくださいました。ですから……しっかり立って、またと奴 隷のくびきを負わせられないようにしなさい」と述べています(ガ ラテヤ5章1節)。 3.自発的な奴隷 これは、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得 するために、すべての人の奴隷となりました」とあるように(第一 コリント9章19節)、完全に自由な者が、人々をキリストの救いに 導くために、また愛のゆえに、自発的に人に仕えて奴隷となること です。 私たちは、一口に奴隷と言っても、三種類の奴隷がいることを知 っているでしょうか 二、人の奴隷について ここでパウロが「人間の奴隷となってはいけません」(23節)と 述べているのは、三種類の奴隷の中で、どれでしょうか。 パウロは、第一番目の奴隷制度を決して承認していませんが、い つかは無くなる時代が来ることを信じて、神の御手にゆだね、その 廃止を訴えるような表立った政治運動はしていません。もちろん第 三番目の自発的な奴隷を禁止しているのでもないことは、言うまで もありません。 パウロがここで述べているのは、第二番目の精神的な奴隷のこと です。これには様々なものがありますが、代表的なものだけ述べる なら、次のような三つです。 1.人を恐れる――私たちは、恐れている人の顔色をうかがった り、ご機嫌をとったりして、その人の言いなりになります。 2.人に甘える――甘えは、相手の好意を失うことを最も恐れる ものですから、やはりその人の言うとおりになります。 3.人を憎む――私たちは、憎んでいる人のことが絶えず気にか かり、様々なことにおいて、その人に振り回されてしまいます。 これらはみな、精神的に人間の奴隷になっていることなのです。 三、神の奴隷について なぜ私たちは、人間の奴隷となってはいけないのでしょうか。そ れは、罪の奴隷となっていた私たちは、キリストの尊い血という代 価をもって買い戻され(すなわち贖われ)、新しい主人である神の 奴隷とされたからです。 神の奴隷には、三つの特徴があります。 1.義務的な奴隷――代価をもって買われた私たちは、神に仕え る義務があります。 2.精神的な奴隷――しかし私たちが神に仕えるのは、義務から ではなく、あまりにもすばらしい神の愛に心を奪われるからです。 3.自発的な奴隷――その結果、私たちは、愛のゆえに自発的に 人に仕えていくのです。 そして私たちは、この神の奴隷になることによってのみ、罪から 解放され、人間の奴隷となることからも解放されるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
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Last updated
2020.08.22 21:32:32
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