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「神の慰めと人の慰め」 2020年9月13日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒ 東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2013年5月31日放映「信仰の決断」 「神の慰めと人の慰め」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、1章1~11節 「私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような 苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(4節)。 この御言葉の前半には神から受ける慰め、すなわち神の慰めにつ いて、後半には人から受ける慰め、すなわち人の慰めについて記さ れています。そこで神から慰めを受ける場合と人から慰めを受ける 場合とは、どのような違いがあるのかということについて、三つの 観点から考えてみましょう。 一、その行動の違いについて 私たちは、自分の心の寂しさやむなしさ、また悩みや苦しみをい やすために、神のもとに行き、神から慰めを受ける場合と、人のも とに行き、人から慰めを受ける場合とは、その行動において、どの ような違いがあるでしょうか。 もし私たちが神のもとに行き、神から慰めを受けるなら――神に 用いられている人を通して神からの慰めを受けることがあることは 言うまでもありません――「どのような苦しみの中にいる人をも慰 めることができるのです」(4節)と記されているように、能動的 また積極的な行動になるでしょう。 しかし私たちが人のもとに行き、人から慰めを受けようとするな ら、人を慰めるどころではなく、自分が人から慰めを受けるという 受動的また消極的な行動になるでしょう。 ところが人から慰めを受けようとすることは、単に受動的また消 極的な行動になるだけでなく、自分の心を慰めてくれることなら、 何でもするが、自分の心を慰めてくれないようなことは何もしない ということにならないでしょうか。 このことは、自分の心を慰めてくれるものが善であり、自分の心 を慰めてくれないものは悪であると判断することにほかならず、そ れは行動の基準が道徳的な善悪から逸脱してしまうことになるので す。 二、その動機の違いについて 私たちが人のもとに行き、人から慰めを受けようとする動機は何 でしょうか。初めは自分の悩みや苦しみを打ち明けているだけです が、そのうちに言い訳や弁解をすることによって自分の罪を正当化 し、相手にもそのことを認めさせようとしているのであり、それが 認められることに自分の慰めを見いだすのではないでしょうか。 このように人から受ける慰めは、不純なものになる危険性がある のです。 これに対して私たちが神のもとに行くなら、どうなるでしょうか。 もし私たちがほんとうに神の前に出るなら、自分の罪を認めて悔い 改めざるを得なくなるのであり、そこに不純な動機のはいる余地は ありません。その結果、罪の赦しと慰め主である聖霊が与えられる のであり、これこそ神から受ける慰めです。 自分の罪を正当化せず、神の御前に心が砕かれた人のみ、神から の慰めを受けることができるのです。 三、その救いの違いについて 私たちの心に真の慰めを与えてくださるのは神のみです。私たち は、神からの慰めを受ければ受けるほど、ますます強くなるだけで なく、聖くなっていきます。 兄たちにねたまれてエジプトに売られたヨセフは、人からの慰め を受けたことは一度もなく、ただ神からの慰めを受けて、強められ るだけでなく、聖くなっていきました。 しかし神からの慰めを受けようとせず、ただ人からの慰めを受け るなら、神から受ける慰めから遠ざかるので、ますます弱くなるだ けでなく、罪深くなっていきます。 このようなことから人から受ける慰めは偽りの救いであり、神か ら受ける慰めこそ真の救いであることが分かるでしょう。 それでは人から慰めを受けることが問題であるなら、人は何のた めに存在しているのでしょうか。ほかの人というのは、私たちがそ の人を通して神からの慰めを受けるか、それとも私たちの方がその 人を慰めるかのどちらかのために神から遣わされているのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
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Last updated
2020.09.12 22:27:06
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