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「聖書が教える奇蹟(3)」 2020年10月18日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東 ⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2013年9月23日放映「三つの声」 「聖書が教える奇蹟(3)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、3章1~26節 三、三位一体の神の漸進的啓示と奇蹟 1.旧約時代――父なる神が天から「しるしと不思議」を示して、 ご自身を現された時代であり、最も初歩的な段階です イスラエル人は多くの「しるしや不思議」を見ても、その信仰は 長続きせず、神に逆らい、呟き、遂に滅ぼされてしまいました。 奇蹟が頻繁に行われたのは危機の時代や邪悪な時代であり、かえ って奇蹟が行われなかった時の方が良い時代です。ヘブル人への手 紙11章の「信仰偉人列伝」に記されている前半の「信仰の勇者た ち」(4~28節)が奇蹟を行っていないことは注目すべきことです。 2.キリスト在世時代――子なる神が地上に降り、人となってご 自身を現された時代であり、第二の段階です イエスは多くの奇蹟を行われましたが、「あなたがたは、しるし と不思議を見ないかぎり、決して信じない」(ヨハネ4章48節)と か「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」(マタイ12章39 節)とかと言われ、「しるしや不思議」を求めるのは悪い時代であ り、不信仰であることを強調されたのです。 3.五旬節以後の時代――聖霊なる神が人の心に内住して、ご自 身を現された時代であり、完成した最終的な段階です 確かにペテロやパウロは、「使徒の働き」において、多くの「奇 蹟と不思議と力あるわざ」を行っています。しかしそれは、「使徒 としてのしるし」(第二コリント12章12節)のために行ったので あり、聖書は、このようなパウロでさえ絶えず奇蹟を行ったのでは ないことを教えています(同11章24~33節)。 「ローマ人への手紙」以後の書簡においても、確かに「奇蹟を行 う者、それからいやしの賜物を持つ者……異言を語る者」について 記されています(第一コリント12章28節)。しかしパウロは、こ のような「いやしや異言」よりも大事なもの、いや最も大切で、こ れがなければ何の値打ちもなく、何の役にも立たないもの、すなわ ち「愛」(同13章1~13節)について教えているのです。 キリストは、「主の名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟 をたくさん行った」としても、神を愛する愛がなく、主を知らなか った人(第一コリント8章3節)に対して、「わたしはあなたがた を全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け」と仰 せられました(マタイ7章22、23節)。 最も大切なことは、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注が れ」ることです(ローマ5章5節)。言い換えれば聖霊によって私 たちの中にキリストがおられ(コロサイ1章27節)、私たちの「う ちにキリストが形造られ」(ガラテヤ4章19節)て、「愛、喜び、 平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(同5章22、23節) という御霊の実を結ぶことこそ何よりも重要なことなのです。 四、病の癒しと人の癒しと国の癒し 「中国のことわざに『上医は国を癒し、中医は人を癒し、下医は 病を癒す』というのがある。病気のことだけを見ているのは薮医者、 病気のもとである心を癒して元気にさせるのがまともな医者、皆が 元気を失うような社会の常識や価値観、ひいては社会のシステムま で本来化するように、と心を尽くすのが本当の名医だという意味で あろう」 「使徒の働き」の3章には、まず1~10節に生まれつき足の不自 由な男が歩いたという病の癒しが記されています。しかしペテロは、 その後の説教(11~26節)において病の癒しを強調したのではなく、 キリストの十字架の救いについて述べ(13~18節)、「この方があ なたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返ら せてくださる」(26節)という人の癒しについて語っています。そ して彼は、この説教において「あの万物の改まる時」(21節)、言 い換えれば「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子ども たちの栄光の自由に入れられ」る(ローマ8章21節)という国そし て全世界や全宇宙の癒しについて述べているのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
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Last updated
2020.10.17 21:52:07
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