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「降誕の意義(1)人間の尊さ」 2020年12月6日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒ 東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2015年11月5日放映「神の思いと人の思い(1)」 「降誕の意義(1)人間の尊さ」 甲斐慎一郎 ヘブル二章5~18節 ヘブル人への手紙の1章には、天使に勝る真の神であるキリスト について、2章には、そのキリストが天使よりも低い人となられた ことについて記されています(7、9節)。 天地万物を造られた真の神のひとり子イエス・キリストが、人類 の罪を贖うために人間となられた、しかも幼子として生まれてくだ さったクリスマス! 降誕の意義の第1回目は、人間の尊さについて学んでみたいと思 います。 一、キリストの受肉は私たちに人間の尊さを教えています (5~10節) 聖書は、人間はみな罪人であると教えています。これは、私たち 人類の代表である「最初の人アダム」(第一コリント15章45節) が神に背いて罪を犯したため、その罪が全人類に及んだからです (ローマ5章12、14節)。 ですから私たちは、この罪から救われるためには、「最初の人ア ダム」の支配から脱して罪を持たない新しい人類の代表者の支配下 に入れられることが必要です。 しかし罪のない人間はいないので、神の御子キリストが人となら なければなりませんでした。すなわちキリストは、「地から出て、 土で造られた者」である「最初の人アダム」に代わり、「天から出 た者」である「最後のアダム」として、新しい人類の代表者となら れました(第一コリント15章45~47節)。 このことを正しく理解し、知るために以下のファイルをクリック してください。 神は、人間を罪から救うために御子を人とされました。神は、こ れほどまで人を尊くみておられるのです。しかし人間は、その尊さ だけを教えられるならば、誇り高ぶる危険性があります。それで、 謙遜の模範者として、最も低い所まで降りてこられたキリストを仰 ぎ見なければなりません(9、10節、ピリピ2章6~8節)。 実にキリストの受肉は、人間は神の目には「高価で尊い」ことで すが(イザヤ43章4節)、尊大に構えず、謙虚にならなければな らないことを私たちに教えているのです。 二、キリストの誕生は私たちに生命の尊さを教えています (11~15節) 「一生涯死の恐怖につながれて奴隷になっていた人々」とは(15 節)、罪の奴隷となっている人間にほかなりません(ヨハネ8章34 節、ローマ6章16節)。 神の義は、罪人を罰することを要求しますが、神の愛は、罪人を 赦し、救うことを願っています。この神の義と、神の愛の両方を満 足させるためには、罪のない人間が贖いとなるいけにえが必要です。 しかし罪のない人間は、どこにもいないので、神の御子イエス・ キリストが人となられました。神は、人間を罪から救うために御子 を人とし、その生命を犠牲にされました。罪とは、これほど恐ろし いものです。しかしまたすべての人の生命は、「キリストが代わり に死んでくださったほど」(ローマ14章15節)尊いものです。 実にキリストの誕生は、人間の生命の尊さを私たちに教えている のです。 三、キリストの生涯は私たちに人生の尊さを教えています(16 ~18節) 人間は、肉体を持っているために独特の不自由さや不便さだけで なく、様々な弱さや悩み、また痛みや苦しみや悲しみ、さらに誘惑 や試練があります。そのためにからだを持っている間は、正しく聖 い生活を送ることなど到底不可能で、罪を犯すことはやむを得ない と考えている人がいます。 神は、私たちが肉体を持っていても、罪を犯さない聖い生涯を送 ることができるように、御子にも血と肉を持つ生活を送らせ、罪は 犯されませんでしたが、すべてのことを体験させただけでなく、私 たちの罪を彼に負わせて罪の贖いを成し遂げさせました。神は、私 たちが肉体を持っていても、罪を犯さない聖い生涯を送ることがで きるように、御子にも人としての生活を送らせたのです。 実にキリストの生涯は、人生は決して罪を犯してはならない尊い ものであることを私たちに教えているのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
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Last updated
2020.12.07 12:17:17
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