|
カテゴリ:カテゴリ未分類
「新しい年を迎えて」 2021年1月3日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒ 東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2014年5月14日放映「イエスを仰ぎ見なさい(1)」 「新しい年を迎えて」 甲斐慎一郎 ヨシュア記3章1~4節 私たちが新しい年の初めに当たり、その出発点に立って、これか ら進もうとしている道について考えることは、何よりも大切なこと です。私たちの前には、どのような道があるのでしょうか。 一、私たちが通ったことのない道 この個所において、つかさたちは「あなたがたは、今までこの道 を通ったことがないからだ」(4節)と言いましたが、「この道」 というのは、直接的にはヨルダン川を渡る道のことを指していまし た。しかしこのことはイスラエルの人々が、これから行くすべての 道についても同じように言えることです。 私たちがこれから歩もうとしている人生の道も、同じように私た ちが通ったことのない道です。このことはキリスト者も世の人々も 同じです。しかしキリスト者は、途中の道は分からなくても、出発 点と目標点は、はっきりと分かっているということです。 イスラエルの人々はエジプトの国を出て、カナンの地に向かいま したが、キリスト者は罪の生涯を出て、天の御国に向かっているの です(ピリピ3章20節)。 ですから私たちは、一度も通ったことのない人生の道を進むため に、次のような3つのことを心がけていなければなりません。 1.出発点である罪からの救いを明確にする。 2.目標点である天の御国に向かう自覚を持つ。 3.途中の道については信仰によって歩む。 二、キリストが通られた道 しかし私たちが通ったことのないこの道を、すでに通られた方が おられます。それはイエス・キリストです。キリストは、苦しみも 弱さも涙も経験されたのであり(ヘブル4章18節、15節、5章7節)、 「すべての点で、私たちと同じ」でした。人としてのキリストと私 たちの違いは、ただ一つ「罪は犯され」なかったことだけです(同 4章15節)。 しかしキリストは無実の罪を着せられ、私たちの罪を自分の身に 負われました。これは誰も経験したことがない想像を絶する苦しみ でした(マタイ27章46節)。このようにしてキリストは、私たち のために「苦しみを受け、その足跡に従うようにと」、私たちに 「模範を残され」たのです(第一ペテロ2章21節)。 よく言われるように私たちが行く道のすべてにキリストが立って おられます。キリストは、私たちのために先にそこを通られ、「道 を踏み固め、平らにしてくださったのです」(S・D・ゴードン)。 誰も通ったことがなく、踏み固められていないものは道ではあり ません。キリストは、ご自身のことを「道」であると言われました (ヨハネ14章6節)。これは、キリストが私たちのために神に至 る道となってくださったという意味だけでなく、私たちのためにす べてのことを経験して、私たちが通りやすいように踏み固めてくだ さったという意味においても道なのです。 三、キリスト者が通るべき道 パウロは、晩年に「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、 信仰を守り通しました」と告白しています(第二テモテ4章7節)。 1.勇敢に戦う生涯――私たちは、どんなに小さな良いことでも 勇敢に戦って獲得しなければ、真に自分の身につきません。 2.走るべき道のりを走り終える生涯――私たちは、「いっさい の重荷とまつわりつく罪とを捨てて」、身軽になり、「忍耐をもっ て走り続け」なければなりません(ヘブル12章1節)。しかもコ ースを間違えずに、また完走するためには、途中で脱落しないよう に節制と計画性が必要です。 3.信仰を守り通す生涯――主は、私たちのためにいのちを捨て てくださいました。ですから私たちは、どんなことがあっても信仰 を守り通さなければならないのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.01.02 23:21:44
コメント(0) | コメントを書く |