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「御言葉への応答(2)御言葉を信じる」2021年2月14日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒ 東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2014年4月1日放映「三つの現実」 「御言葉への応答(2)御言葉を信じる」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、4章1~13節 ヘブル人への手紙の著者は、荒野を旅したイスラエルの民および 新約のキリスト者を問わず、神の言葉を聞く時に大切なことは信仰 であることを次のように述べています。 「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなので す。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんで した。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつ けられなかったからです」(2節)。 それで「信じる」ということについて、この箇所から三つのこと を学んでみましょう。 一、信仰の時――今日 このヘブル人への手紙の3章と4章には、「きょう」という言葉 が5回も記されていますが(3章7、13、15、4章7節に二回)、 これは、どのような意味でしょうか。聖書を読んだり、説教を聞い たりしたならば、何が何でも、すぐに信じなければならないという ことでしょうか。そうではありません。これは、信仰というものは 常に現在のものでなければならないことを私たちに教えています。 神は時空を超越された方ですから、「神にとっては過去や未来と いうものはなく、すべての事柄は等しく現在です」(ジョン・ウェ スレー)。また人間の場合も、過去のことは、いまさらどうするこ ともできず、未来のことは不確かですから、確実に自分の時間とし て用いることができるのは、現在のみです。 神は、聖霊を通して、その古い御言葉を私たちにの心に新しく語 りかけられる時が必ずありますが、その時こそ信じる時です。そし てその信仰は、常に新鮮に「きょう」という現在的なものでなけれ ばならないのです。 二、信仰の根拠――神の約束 この手紙の6章には、信仰の根拠について詳しく述べられていま す。6章12節から17節の間に「約束」という言葉が4回も記されて います(6章12、13、15、17節)。 私たちが「信仰を持つ」とか「「信じる」という時、その信仰は 何を拠り所としているでしょうか。神の存在でしょうか。神の愛と か真実さという神のご性質でしょうか。または神の言葉でしょうか。 もちろん私たちは、神の存在を信じ、すばらしい神のご性質を信じ、 また聖書を神の言葉であると信じなければならないことは、言うま でもありません。 しかしこれらのことを前提にしながらも、もっと中心的で大切な 信仰の根拠があります。それは私たちに対する「神の約束」です。 旧約聖書は、神が人と結ばれた「古い契約」であり、新約聖書は、 神が人と結ばれた「新しい契約」ですが、それは同時に私たちに対 する「神の約束」でもあるのです。 三、信仰の結果――安息 ヘブル人への手紙の3章と4章に、もう一つ多く出て来る言葉が あります。それは、11回も記されている「安息」です(3章11、 18、19節、4章1、3、5、6、8、10、11節)。 「彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであった」(3 章19節)とか「信じた私たちは安息に入るのです」(4章3節)と いう言葉は、信じた結果は安息であることを私たちに明白に教えて います。私たちは、自分がほんとうに信じたのか、信じなかったの かということは、自分の心に安息があるかどうかですぐに分かりま す。この安息こそ、いわゆる感動して信じる「感情的な信仰」を 「真の信仰」であると錯覚している誤りから私たちを救うものです。 人々がイエスに「私たちは、神のわざを行うために、何をすべき でしょうか」と聞いた時、イエスは、「あなたがたが、神が遣わし た者を信じること、それが神のわざです」と答えられました(ヨハ ネ6章28、29節)。 私たちは、自分のわざを終えて(10節)、神とその約束を信じる なら、この安息に入ることができます。そしてこの安息に入った者 のみ、神の約束を忍耐をもって待つことができるだけでなく、その 約束のものを得ることができるのです(ヘブル10章35、36節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
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Last updated
2021.02.15 14:36:06
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