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「生きている信仰と死んでいる信仰」 2021年5月1日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒ 関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2018年9月4日「生物が生きるために必要な創造の六日間」 「生きている信仰と死んでいる信仰」 甲斐慎一郎 サムエル記、第二、25章 ダビデとアビガイルの姿から、実際の生活の中に生きている信仰 と、そうではない死んでいる信仰について考えてみましょう。 一、死んでいる信仰(1~22節) ダビデにとってサムエルは偉大な恩師であるだけでなく、ヨナタ ンのほかにダビデが悩みを打ち明けることができた掛け替えのない 人でした(19章18節)。そのサムエルが死んだのです。これはダ ビデにとって大きな衝撃であるとともに信仰の危機でした。 アビガイルに会うまでのダビデの姿を見てみましょう(1~22節)。 ダビデの求めに対してナバルは彼を侮辱しました(10、11節)。こ のナバルの恩知らずと非礼な態度にダビデは怒り、すぐ「めいめい 自分の剣を身につけよ」(13節)と部下に命じています。しかしこ れはあまりにも思慮がなく、軽率であるだけでなく、祈りもせず、 神の導きも求めない不敬虔な態度でした。 この箇所(1~22節)には、22節において呪いの誓いのために神 の名を口に出していますが、それ以外に神の名は記されていません。 ダビデはナバルに侮辱された腹いせに、ただ復讐のみを考えて、そ の思いの中にも、その会話にも、その行動の中にも、全く神はいま せんでした。この時の彼の信仰は死んでいたのです。 私たちも日常の生活の中において、特に自分の思い通りに物事が 運ばない時、祈りもせず、神の導きも求めないで、ただふるまうな ら、その思いと会話と行動の中に全く神はおられず、その信仰は死 んでいるのです。 二、生きている信仰(28~44節) これに対してアビガイルの信仰は、どうでしょうか。24節より31 節までのわずか8節の間に、実に「主」という言葉が7回も出てき ます。このことから次のような三つのことを学ぶことができます。 1.人の会話の中に生きておられる神 アビガイルの何げなく話している言葉の中に、何と多くの神の名 が出てくることでしょうか(26~31節)。 彼女は、(1)復讐について(26節)、(2)家の繁栄について(28節)、 (3)奉仕について(28節)、(4)生命について(29節)、(5)敵の生命 について(29節)、(6)約束について(30節)、(7)幸福について(31 節)、ことごとく神にふれており、神と切り離しては考えられない会 話をしています。 このようにすべての会話が神と切り離せない言葉を語るものこそ生 きている信仰です。 2.人の行動の中に生きておられる神 しかしアビガイルは、単にその会話や言葉の中に神の名が出てきた だけでなく、人の行動の中にも神が生きておられることを知っていま した。 彼女の行動は、すべてのことの中に神がおられ、すべての出来事や 人間関係の中に常に神が介入し、干渉し、働いておられることを信じ ていたことをよく表しています。 このように人の行動の中にも常に介入し、干渉し、働いておられる 神を信じて行動するものこそ生きている信仰です。 3.人の心と思いの中に生きておられる神 このようにアビガイルが会話の中にも行動の中にも神が生きておら れたのは、その心と思いの中に神が生きておられたからにほかなりま せん。このようなアビガイルの生きている信仰によってダビデの死ん でいた信仰は生き返ったのです。 私たちは、聖書に記されている真の神を信じることによって心の中 に神が生きるようになるだけでなく、継続的に聖書を学ぶことによっ て、私たちの人間的な思いが神の思いと入れ替わり、その思いの中に も神が生きておられるようになります。これこそ自分だけでなく、ほ かの人をも生かすことができる生きている信仰なのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
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Last updated
2021.05.06 10:59:17
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