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「見抜く力と気力を与える信仰」2021年5月15日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒ 関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 2018年9月27日放映「私のささえである主(1)」 「見抜く力と気力を与える信仰」 甲斐慎一郎 申命記、34章1~8節 「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、 気力も衰えていなかった」(7節)。 このモーセの臨終の記録において、彼の目とか気力というのは、 肉体の眼と気力を指していることは言うまでもありません。しかし このような旧約の出来事に新約の光を当てるなら、モーセは百二十 歳になっても、霊的な目はかすまず、霊的な気力も衰えていなかっ たことを教えられるのです。新約の光というのは、ヘブル人への手 紙11章24~27節のことばです。 一、霊的な目がかすまない秘訣 ヘブル人への手紙の著者は、モーセの生涯を次のように述べてい ます。 「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれ ることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民 とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受 けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は 報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」(ヘブル 11章24~26節)。 このみことばの中に、パゼット・ウィルクスは、モーセは3つの ものを見ていたと述べています。その3つとは、「神の道」と「神 の民」と「神の報い」です。 まずモーセは、世俗の地位と罪の楽しみと世の富を捨てましたが、 それは信仰によって、これが神の道であると見ていたからです。 またモーセは、神の民の悲惨と窮状を見ましたが、それと同時に 信仰によって、神の民とともに苦しむ幸いを見ていたのです。 そしてモーセは、世の報いに目もくれませんでしたが、それは信 仰によって、神の報いを見ていたからです。 これこそモーセの目がかすまなかった秘訣です。もし私たちが世 俗の地位と罪の楽しみと世の富に目を奪われたり、神の民の苦しみ に目をつぶったり、自分の苦しみだけに目を留めたり、神の報いに 目もくれず、世の報いにばかり目を向けたりしているなら、私たち の霊的な目はかすんでしまうのです。 確かにモーセは、「神の道」と「神の民」と「神の報い」を見て いましたが、彼がほんとうに見ていたのは目に見えない方でした。 すなわちモーセは、「目に見えない方を見るようにして、忍び通し た」信仰のゆえに(ヘブル11章27節)、神の道と神の民と神の報 いを見ることができたのです。 二、霊的な気力が衰えない秘訣 人間にとって最も大切なものは、気力とかやる気です。弱さや未 熟さはあっても、気力さえあれば、それらを乗り越えることができ ますが、気力のないことは致命傷です。信仰者にとって霊的な気力 ほど大切なものはありません。 それでは霊的な気力は、どこから来るのでしょうか。霊的な目が かすまないことこそ、霊的な気力の原動力です。具体的には、次の ような3つにまとめることができます。 1.二心を持たず、心を神に定めること 私たち人間にとって心の分裂は大敵です。神と富とに兼ね仕えた り、神と世の間をさ迷ったりしている者にどうして気力が出てくる でしょうか。 2.見るところではなく、信仰によって歩むこと 私たちは、物事の結果だけを見て、一喜一憂してはなりません。 思わしくない結果を見て、失望落胆している者にどうして気力が出 てくるでしょうか。 3.思い煩わないで、神にゆだねること ジョン・ウェスレーは、「あなたは、もっと多くのことをするこ とができるように、一時にはわずかなことをしなさい」と興味深い ことを述べています。私たちは、すべてのことを神にゆだね、思い 煩うことなく、今この時、神から与えられた使命を果たし、奉仕に 励めばよいのです。神にゆだねず、あれこれと思い煩っている者に どうして気力が出てくるでしょうか。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
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Last updated
2021.05.15 22:58:16
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