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「真理の世界と力の世界」 2021年5月30日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒ 関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、13章8節 「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のた めなら、何でもできるのです」(8節)。 一、真理の世界と力の世界の相違 動物の世界に代表される自然の世界は、弱い物が強い物の餌食と なる弱肉強食の世界であり、私たちが住んでいる社会も、数の力や 金の力、名誉や地位の力、年齢や経験の力、そして体力や能力等の ある強い者が弱い者を征服するという弱肉強食の力の世界です。 これに対して超自然的な神の世界は、「何が良いことで、神に受 け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」(ローマ12章2節) という真理の世界(ヨハネ18章37節)であり、弱肉強食の力の世 界ではありません。 二、真理の世界と力の世界の接点 上の図は、上から下の縦軸は、目に見えない教会である天の御国 とこの世という二つの世界と、この二つの世界の橋渡しをしてい る目に見える地上の教会を表しています。 目に見える地上の教会は、この世から天の御国に行くための橋の 役目をしています。 人々は、目に見える教会を通って天の御国に行くのです。ところ が、その教会が左側の教会のように世に働きかけず、教会の中だけ に閉じこもるなら、世と遊離した教会となり、右側の教会のように、 世に迎合し、教会の中が弱肉強食の世界になるなら、世俗的な教会 となり、どちらもこの世から天の御国に行くための橋の役目を果た せなくなるのです。 これに対して中央の教会のように、世と遊離せず、しかも世に迎 合せず、教会の中が天の御国のひな型としての真理の世界なら、健 全な教会となり、人々は教会を通って天の御国に行くことができる のです。 三、真理の世界と力の世界の関係 それでは真理の世界に力は不要なのでしょうか。そうではありま せん。私たちは、真理を見分ける力や真理を行う力は必要であり、 神は「真理のためなら、何でもできる」力を与えてくださいます (8節)。この力は、世の力ではなく、霊的な力、すなわち超自然 的な神の力です。これは、数の力や金の力、名誉や地位の力、年齢 や経験の力、そして体力や能力等の世の力がないのに、どうしてあ のような力があるのだろうかと、人々が不思議に思う真理のための 力です。 それでパウロは、「私たちは、四方八方から苦しめられますが、 窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまること はありません。迫害されていますが、見捨てられることはありませ ん。倒されますが、滅びません」(第二コリント4章8、9節)。 「人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生 きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでい るようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ま せ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています」(同6 章9、10節)。「それは、この測り知れない力が神のものであって、 私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」と述べ ているのです(同4章7節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集 久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
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Last updated
2021.05.30 20:58:36
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