説教要約 1166
「沈黙の霊的な教え」 2019年9月15日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年5月12日放映「目に見える罪と目に見えない罪」 「沈黙の霊的な教え」 甲斐慎一郎 詩篇50篇1~23節 外国の諺に、「沈黙は金、雄弁は銀」というのがあり、聖書には「愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、その唇を閉じていれば、悟りのある者と思われる」という言葉が記されています(箴言17章28節)。 この詩篇には、神に関して対照的な言葉が記されています。 「われらの神は来て、黙ってはおられない」(3節)。 「こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた」(21節)。 聖書が教えている真の神は、私たちに語りかけられる神ですが、またある時は、何も語らずに黙っておられる神でもあります。それで沈黙について聖書から学んでみましょう。 一、人の沈黙について 人が沈黙するのは、およそ次のような場合ではないでしょうか。 1.一般的な場合――次の8つがあります。①試す時(創世記24章21節)②かかわりあわない時(ヨブ13章13節)③忍耐する時(詩篇39篇2、9節)④観念する時(イザヤ47章5節)⑤恥じる時(エレミヤ14章3、4節)⑥途方に暮れる時(ダニエル10章15節)⑦驚嘆する時(ルカ20章26節)⑧承認する時(使徒11章18節) 2.悪い場合――次の4つがあります。①怠慢の時(第二列王記7章9節)②弁解の余地がない時(マタイ22章12節)③隠す時(マルコ9章34節)④頑固な時(ルカ14章3、4節) 3.良い場合――次の5つがあります。①信頼する時(出エジプト14章14節)②待ち望む時(詩篇62篇1節)③自制する時(イザヤ42章14節)④服従する時(イザヤ53章7節)⑤悔い改める時(哀歌2章10節) 同じ沈黙であっても、このような多くの意味があることから、沈黙というのは決して何もないということではなく、それも私たちに何かを語りかけ、ある場合には、ことばで語る以上に雄弁であることが分かるでしょう。 二、神の沈黙について それでは神の沈黙というのは、どのようなことを意味しているのでしょうか。 1.それは、神の怒りであり刑罰です 良心の光に背いてバプテスマのヨハネを殺させたヘロデは(マタイ14章10節)、その後、十字架につけられるキリストに色々と質問しましたが、キリストは、彼に何もお答えになりませんでした(ルカ23章9節)。またパウロは、ローマ人への手紙において「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され」(1章24節)と述べていますが、このような神の沈黙や放任は、恐ろしい神の怒りや刑罰を表しているのです。 2.それは、神の愛であり忍耐です ゼパニヤ書には、「彼なんじのために喜び楽しみ愛の余り黙し」(三章17節、文語訳)と記されています。またペテロは、その手紙において「主は……あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(Ⅱペテロ三章9節)と述べていますが、このような神の沈黙や忍耐は、神の愛を表しているのです。 3.それは、神の試験であり試練です 聖書は、ヒゼキヤ王について「バビロンのつかさたちが……説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた」(第二歴代32章31節)と記していますが、このような神の沈黙や不干渉は、神に従うかどうかを試す神の試験や試練を表しているのです。 人の沈黙は、ある時は、ことばで語る以上の雄弁であるように、神の沈黙も、ことばに優るとも劣らない語りかけであることを知らなければなりません。ですから私たちは、神の語りかけのみならず、神の沈黙の中にも神のみこころを知って、いよいよ神を恐れて、敬虔に歩まなければならないのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」