説教要約 67
「真の信仰(3) 信仰と罪」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙、4章11、12節 第三番目に信仰と罪について学んでみましょう。これは言い換えれば信仰という観点から罪とは何かということを知ることです。 私たちが少しでも聖書を読むなら、聖書が教えている罪というのは、神とその神に対する信仰ということを離れては考えることができないことが分かるでしょう。 一、罪とは、神とその神の律法を信じないことです(ヤコブ4章11、12節) ヨハネが「罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです」と述べているように(第一ヨハネ3章4節)、罪とは律法を破ることです。 法治国家において罪と言えば、国の法律を犯すことであることは言うまでもありません。しかしここで忘れてはならないことは、国の法律を知らなくても、それを犯せば罪になるということです。もし法律を知らなければ、それを破っても罪にならないとしたなら、法律を知ろうとせずに、勝手にふるまうことがまかり通ることにならないでしょうか。それでは、その社会は法も秩序もない最も恐ろしい無法地帯になってしまうことでしょう。 聖書は、「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます」と教え(12節)、天地万物を造られた真の神とその神の定めた律法の存在を教えています。ですから罪とは、この神の定めた律法を犯すことです。 しかし神を離れた人間は、人間の制定した法律や人間性(ヒューマニズム)の法の存在を信じても、この最も根本的な神の定めた律法の存在を信じません。神の律法を犯すことは罪です。とすれば、なおのこと、神の律法の存在を信じないことは、罪ではないでしょうか。その結果、パウロの言うように、「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び」るのです(ローマ2章12節)。 二、罪とは、救い主イエス・キリストを信じないことです(ヨハネ16章9節) 聖書は、「義人はいない。ひとりもいない。……すべての人は、罪を犯した」と教えています(ローマ3章10、23節)。しかし「神は、罪を知らない方(キリスト)を、私たちの代わりに罪とされ」たので(第二コリント5章21節)、私たちはキリストを救い主として信じるなら、義と認められて罪から救われることができるのです。 罪人はもちろんのこと、キリスト者も一生涯、この救い主キリストを必要としています。なぜなら「この方以外には、だれよっても救いは」ないからです(使徒4章12節)。ですからこの救い主を信じないで、拒否することは、「神の御子を踏みつけ」る最も恐ろしい罪であり、あとは「ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです」(ヘブル10章29、27節)。 三、罪とは、信仰から出ていないことです(ローマ14章23節) パウロは、「疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます」と教えています(ローマ14章23節)。これは非常に大切なことです。私たちは、「これは神のみこころである」と、「自分の心の中で確信を持」つことが必要です(同14章5節)。これは正しいかどうか分からないで、心の中で確信を持つこができず、心の中に疑いや不安、またやましさや後ろめたさがあるなら、それはすべて罪です。なぜなら、それは「信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」(同14章23節)。 私たちは日々信仰によって歩むなら、たとえ遅くても必ず信仰に成長して罪に対して敏感になります。ですからもし私たちが何年経っても信仰に成長していないとするなら、それは信仰から離れていることになり、信仰を回復しない限り、罪に定められるのです。