説教要約 769
「摂理を信じる信仰」 甲斐慎一郎 創世記、22章1~19節 「摂理」という言葉の語源は、「アドナイ・イルエ(主が備えてくださる)」(14節)であると言われ、その意味は、「神の予知による人間への配慮」です。アブラハムがイサクをささげた出来事から、摂理とそれを信じる信仰について学んでみましょう。 一、キリスト者の悩みとその解決 アブラハムが神よりイサクをささげよという大きな試練を受けた時、彼とても先に何が起きるのかを全く知らない人間である以上、神のなさることを理解することができず、悩んだことでしょう。しかしこのアブラハムの悩みは、キリスト者の共通の悩みです。 人間は神を信じて罪から救われても、様々な苦難や不幸や災いはなくなりません。この苦難や不幸や災いがあるということは、世の人々が神を信じない最大のつまずきになっているだけでなく、神を信じているキリスト者にとっても最大の悩みであり、また多くの場合、それは信仰の成長を妨げる最大の原因にもなっています。 このような苦難があっても、先に必ず良いことが待っているのがわかっていれば、それにも耐えられますが、実際には神を信じても、先のことは全くわかりません。 しかして、この二つの大きな悩みに十分な答えと解決を与えてくれるのが神の摂理であり、またそれを信じる信仰です。 二、キリスト者の宗教とその本質 アブラハムが試練に会ったのは、最愛の子イサクを神にささげるかどうかによって、彼の神に対する真実な愛があるかないかを試されるためでした。真の宗教の本質は、神が与えてくださる祝福や恵みよりも、神を真実に愛する愛を持つことです。 ですから神を信じることによって、この世において全く苦難がなくなるなら、それは御利益宗教以外の何物でもなく、人は、ただ自分の利益のために神を利用していることになってしまうでしょう。その結果、真の宗教の本質である神への真実な愛などあり得ず、ただ罪深い、貪欲な人間が生まれるだけであり、宗教は、その存在価値を失ってしまうことでしょう。 また先のことに関して、もしアブラハムが天からの声によって止められることを予め知って、イサクをささげたとしたなら、彼の行為は芝居であり、その完全な献身も真実かどうか疑わしいものです。 このように苦難や先のことがわからないことは、御利益宗教や打算や偽りなど、真の宗教にとって致命的な不純物を取り除いて、真実な愛を持つために必要なことなのです。 三、キリスト者の勝利とその秘訣 アブラハムは、具体的には先に何が起きるのか全く知りませんでしたが、神は、良いものを必ず備えてくださることを信じていました(8節)。神の摂理を信じる信仰は、具体的な一つ一つのことに関しては、先に何が起きるのか、その時になるまではわからなくても、神は良いことはもちろんのこと、現在、目前にある苦難や不幸や災いなどの悪いことをも用いて、予め私たちのために最善のものを備えてくださると信じるのです。 しかしこの摂理を信じる信仰を持ち、また神の摂理の道を歩むために必要なことは、アブラハムがイサクをささげたように自分を完全に神にささげることです。これは具体的には、絶えず自分のためにではなく神のために、しかも安易な道ではなく、苦しくても最善の道を選ぶことです。 なぜなら、「ノークロス、ノークラウン(No cross,no crown)十字架なくして栄光なし、苦難なくして栄冠なし」という諺のように、神の道は、十字架の道、また自己否定の道だからです(マタイ16章24節)。十字架の道のみ生命に至る道であり、その苦しみは喜びに変わるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会