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カテゴリ:映画のあれこれ
誕生日に死んだ人って、今までに何人いるだろう?
いきなり何を言うのかと思うかも知れないが、ボクが一番好きな映画作家、「小津安二郎」がまさにそうだった。 1903年12月12日東京は深川に生まれ、1963年12月12日満60歳の誕生日に亡くなっている。そして北鎌倉にある彼の墓石には「無」の一文字が記されている。 酒をこよなく愛し、映画に執念を燃やし、妥協を許さない。 しかし、彼の描く人間像は、か細くささやかで忘れ去られがちな市井の魂だ。 生涯を独身で過ごした。しかし後生に残したものは尊大だ。 父と娘、母と娘、子どもや青年、彼が描く人々は、普通に暮らし普通に生きようとしている人たちが多い。普通に生きなかった彼が、どうして普通の人々に執着するのかは「お早う」という映画を見ていて何となく分かったような気になったことがある。 何気ない一言、これといって意味のない挨拶、そんな中に生活の潤滑油が存在し、それが人と人を結びつけ、愛や思いやりやましてや憎しみまでもを生み出す土台のような働きをしているように思える。 彼が生み出したローアングルの画像や、花瓶のロングショットの中に、胸の中のどうしようもない思いや、ため息も出ないような気持ちが見えてくるときがある。 生涯ひとりだった彼は、自分の家庭を映画の中に投影し、その中に第三の登場人物のように自らが存在していたのかもしれない。 「生まれてはみたけれど」の弟役の青木富夫(突貫小僧)さんに、小津さんは、こんな事をいったという。 「お前、オレの映画を見てどう思う? あんなのはみんなウソだよ。夫婦愛とか家族愛とかありゃしない。でも、そういうふうな家庭がほしいよな、突貫!」 彼の人生観は、まるで「人生はあてにならない」といいたげだ。 それは、そうなのかも知れない。だからこそ、日々の些細な出来事の積み重ねが、その時間の流れの中に身を委ねた自分が自らを感じ、ほんのささやかでも幸せを味わうことが出来れば、それでいいと。 笠智衆のセリフに「いやあ、欲をいやぁきりがないよ」というのがある。それに集約されているのかも知れない。こういう意味のセリフは、彼の映画の中に頻繁に出てくるからだ。 彼が生まれてから100年以上が経っている。100年といえば1世紀だ。21世紀を迎えた今、いや、これから、何を大切にして何を思い何を感じ何に思いを馳せるべきか、彼の残した映画という芸術をもう一度見直してみたいと思っている。 アメリカ映画の模倣から始まった小津作品がなぜ、禅の境地をみいだしたのか。「タクシー・ドライバー」の脚本を書いたポール・シュレイダー(アメリカン・ジゴロの監督)ー彼の車のナンバーは[OZU]だったー や、ヴィム・ベンダース、アキ・カウリスマキ(レニングラード・カウボーイズ)など世界の監督たちがなぜこれほどまでに小津監督を絶賛するのか、おそらくストイックなまでに作り込まれた映像の中に、人の思いがすり込まれているのだと思えるのだけれど、ある程度年を取った今、もう一度、彼の作品を見直してみると、それらの意味がハッキリと掴めるような気がしてならない。 来年の抱負を今から言わせて貰うなら、今まで気になった彼の作品やもう一度見たいと思った映画たちと久しぶりに対面してみるのも良いかもしれないな、と思うのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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