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その1よりの続き
―――― ◇ ―――― 落語への愛を試した 塩野:今、新作落語ができそうでした(笑)。そんな物産マンに、なぜキャリアの転機が訪れたのですか。 志の春:初めて落語に出会ったのは2001年の11月でした。巣鴨の街を歩いていたら、「立川志の輔 独演会」というのぼりが立っていた。まったく落語に興味はありませんでしたが、師匠志の輔の名前は知っていたので、当日券でぶらっと入った。「どうせ、じいさんばあさんしかわからないような笑いだろ」という感じで。ところが師匠が出てきたとたん、「こんなに笑ったのは初めて」というくらい、腹を抱えて笑った。「こんなに面白いのか!」と衝撃でした。 しかし、それは現代が舞台の創作落語だったから、自分にもわかったんだろうと思っていた。でも次の古典落語を聞いていたら、情景が頭の中で浮かび始めて、途中から師匠が見えなくなるんですよ。お侍とか娘さんとか、登場人物たちの絵が本当に見えた。さっきまで落語すら知らなかったくせに、会場から出た瞬間、すでに師匠と呼んでいたかもしれない(笑)。わりと早い段階から、自分でも落語をやりたいと思いましたね。 塩野:それでどうされたのですか。 志の春:僕は熱しやすいけれど冷めやすいところもあるので、自分を試そうと。半年後も自分が同じように思っていたら、もう入門しようと思った。そう思いながらほぼ毎日のように片っ端からいろいろな落語を見に行くようになり、お客さんのところに行って話すことも落語のことばっかり(笑)。半年たってもまったく気持ちが変わらないので、師匠に弟子入りすると決めました。 塩野:なるほど。半年間、自分の愛を試したのですね。 志の春:はい。でも落語の世界には「親が反対しているなら入門は許可しない」という決まりがあります。反対を振り切って入るものではないのです。弟子にするというのは人生を預かることだから、親が反対している状態では無理。親が反対するのは当たり前だし、親を説得するぐらいの口がなくて、何が落語家だと。 塩野:確かにそうですね。 志の春:そこで説得活動を始めましたが、猛反対されました。また不運なことに、その直前に僕の2歳下の弟がイギリスのオックスフォード大学を卒業した後、「俺、劇団四季に行くから」と言い出したばかりだったのです。お袋たちにしてみれば、「次男はしょうがない。うちにはまだ長男がいる」と思っていたところだったのですよ。 塩野:親は寝込みますね。 志の春:でも最終的には向こうも折れましたね。それで今度は会社に辞めると言わなければならない。辞めてから弟子入りをお願いしなければいけないことは、わかっていました。 実はその前に1回師匠に手紙を書いたら、会ってもらえたのです。事務所から電話があって、「毎週何曜日にNHKの『ためしてガッテン』の収録をしているから、その楽屋に履歴書持って来て」と言われた。それで有休取って行ったのです。そしたら履歴書を見て、「イェール大学出て、三井物産か。悪いこと言わないから、やめときな。会社を辞めてまでやるような仕事じゃないよ」と言われた。でもそれは本心ではないのです。 塩野:まあ絶対そうでしょうね。 志の春:「君が落語を好きなのはよくわかった。だから趣味として落語を見に来たらいいよ。とにかく会社を辞めようなんてことは考えるな」と説得してくれた。そのとき僕は、「失礼なことをした」と思ったのです。退路を断たずに入門したいと言うなんて。次に会うときは絶対会社を辞めていこうと決めて、親を説得した後で会社に言ったら……すんなりいきましたね(笑)。僕は一度突き返されるぐらいの覚悟でいたのに。 4畳半、風呂なし生活からスタート 塩野:慰留されたらこう返そう、とシミュレーションしていたのに。それで師匠のところにもう1回お願いに行ったわけですね。 志の春:ええ。師匠の楽屋で出待ちして、「弟子にしてください。会社辞めて参りました」と言ったら、「おいお前、辞めろって、そっちじゃねえぞ。辞めるのをやめろと言ったんだ」と言いながらも、「辞めたんだったら仕方がないや。そこらへんウロウロしてろ」と言われた。「ウロウロしてろ」というのは、師匠の師匠である談志師匠が、志の輔に入門を許可したときに言った言葉なんですよ。その伝統の「ウロウロ」が出た。 塩野:そうでしたか。うれしかったですか。 志の春:うれしかったですね。そこから付き人とか運転手とかをやりながら、芸名をもらうことを目標に、見習い生活が始まりました。 塩野:最初はお給料も全然出ないそうですが。 志の春:そうです、ゼロですね。前座になって師匠の会で高座に上がるようになると、1回何千円というお小遣いのようなものが出ますが、それまでの付き人稼業はずっと無収入ですね。 塩野:何年間ぐらい、どういう暮らしをしていたのですか。 志の春:恵比寿に師匠の事務所があったので、近くに引っ越しました。家賃2万9000円、4畳半、風呂なし、トイレ共同という部屋があったんですよ。家主のおばあちゃんが管理人さんとしてひとりで住んでたんですが、当時87歳で、半年くらい経ったときに、「もう管理していくのは無理だから、ここは売っちゃう。ごめんなさい、ほかを探して」と言われた。それで同じ恵比寿に、同じく家賃2万円台で風呂なし、トイレ共同のところを見つけた。87歳が「私もう駄目」と言ってるのに、そこの家主は92歳。だいたい恵比寿あたりでそんな家を持っているのは、たぶん「おじいちゃんとの思い出の家だから取り壊したくない」という、頑固なおばあちゃんくらいですよ。もしビルとか建てたらめちゃくちゃ家賃が高くなるのに。 塩野:そういう物件があってよかったですね。 志の春:ありがたかったですよ。二つ目になるまで、銭湯に通いながらそこで8年くらい暮らしました。その間、いろいろなものが質屋に消えていきました。 塩野:落語そのものですね(笑)。じゃあ今までの蓄えで暮らしていた? 志の春:そうです。あの会社にいたおかげで、ある程度、貯金があったので、それを切り崩しながらなんとか月7万~8万円の生活費で暮らしていました。 塩野:でも、いつちゃんと収入があるか、周りに認められるか、わからないわけですよね。 志の春:わかりませんね。前座として何回か高座に上がるようになっても、出られるのは師匠の会だけですから、月に4~5回で何千円のレベル。でも前座になって5年、6年過ぎると、ほかの師匠のお仕事にも呼んでもらえて、ギリギリ落語で食べていけるようになりましたね。 (構成:長山清子、撮影:梅谷秀司) ―――― その3に続く(多分) ―――― お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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