高梨沙羅が「国民」からの「謎の圧力」に勝利した日
文春オンライン
西澤 千央
2018/02/17 07:00
高梨沙羅さん
実像は、いろいろな雑用も進んで手伝う
性格は、本当に文句のつけようが無い
素晴らしい選手らしい
しかし、今回、待望のメダルを取る前
いろいろな理不尽なバッシングを浴びた
私は、この記事の著者と同様
このバッシングに強い憤りを感じていたのだが
メダルが取れて
沙羅ちゃん
リベンジが出来たね
私もうれしい
ウインタースポーツの有名選手達
金満長者が多い
沙羅ちゃんがベンツのジープぐらい買って何が悪い
雪のジャンプ場に乗って行くんだから
四駆のジープって必然性もある
スバルに乗れって?(笑)
自分へのご褒美にベンツのSUV、ジープが、何が悪い?
日本人は、清貧ヒーローがお好みなんだろうが
ジャンプ界のヒロインに変なことを求めるなよ
私なんか、ジャンプ台に上るだけで
恐怖で小便を漏らしてしまうと思う
そこから地獄の底みたいな所へ落下するように滑走して
あまつさえ、100メーターも、空中を飛ぶんだよ
鳥人、いや、超人の世界だ
おまえ達凡人がどういう言う権利など微塵も無い
その瞬間、「アォッ」という、ソチフリーの浅田真央選手が3A着氷させたときの解説タラソワコーチみたいな声出ました。平昌オリンピック、女子ジャンプ。2回目のジャンプで103.5mという記録を叩きだした高梨沙羅選手。着地後の小さなガッツポーズに女子ジャンプ先駆者としての意地が滲んでいたようで、胸が熱くなりました。と同時に底意地の悪い私も小さくガッツポーズしたのです。マスカラとベンツ、大勝利……と。
たとえば親が子に、恋人が恋人に、ファンがアイドルに……悲しいかな人は他人に対して勝手に期待をぶつけては、期待が果たされないとなると逆ギレし、その理由をあれやこれやと探りだし、弾劾しようとする、ひとり相撲脳内場所を開催させてしまう生き物。そしてそれが最も顕著に表れるのが「国民とアスリート」の関係性ではないでしょうか。特に国同士が戦うオリンピックでは、
視聴者が「国民」という最強の鎧を身につけたことで、無敵感を発揮してしまう。
アスリートは「国民」の代表→「国民」とはすなわち自分→俺の私の理想のアスリートであれ→壮行会でラップしてはいけない腰パンドレッドしてはいけない俺より先に寝てはいけない俺より先に起きてもいけない飯はうまくつくれいつもキレイでいろ……国民総関白宣言。
「化粧なんかにうつつを抜かしているからだ」
この、ちょっと不可解ともいえる“理想のアスリート像”の犠牲となっていたのが、前述の高梨沙羅選手でした。4年前、ハウス北海道シチューのCMで牛の乳絞ってそうだった高梨選手ももう21歳。そりゃ髪をカラーリングしたり、メイクもするでしょうよ。そうしてどんどんあか抜けていく高梨選手を、なぜか「国民」は許せなかったようです。平昌に向けなかなか調子が上がらなかった高梨選手の記事がネットに上がるたびに、コメント欄には「化粧なんかにうつつを抜かしているからだ」などと書き込みが。もしかして、まつエクしたら空気抵抗が変わるの? 眉毛整えたらテレマーク姿勢乱れるの? と、マジで頭いい人に聞きたくなるほど理不尽なバッシングに見舞われていました。
この怒りの根源をのぞいてみますと、どうやら単に化粧が気に食わないというわけではないらしいのです。そこには「メイクという女が喜んでやりそうなことを我慢してこその努力」という、禁欲思想があるようで。「化粧」とは「うつつを抜かす」行為。これはちょっと前にネットで大炎上した『あたしおかあさんだから』にも通じる世界です。楽しそうなことを我慢してこそ価値ある勝利。楽しそうなことを我慢していたのなら、結果が出なくてもまぁ許してやる、というね。
「永遠に素朴でいてほしい」という謎の圧力
さらにです。もしかしたらこちらのほうが根は深いかもしれない、「素朴な女の子は永遠に素朴な女の子のままでいてほしい」という、謎の圧力もあるように思われます。『木綿のハンカチーフ症候群』とでも言ったらいいのか。ハウス北海道シチューの女の子には、指輪もいらない、口紅もつけない、自分を捨てた恋人に金銭ではなくハンカチを要求する女性であってほしい。高梨選手はこうした「あたしアスリートだから」幻想と「都会の絵の具に染まらないで帰って」圧力を、ダブルで背負わされてしまったように思うのです。
もし高梨選手が元々ゴリッゴリの鬼ギャルだったら……このようなバッシングは受けていなかったんじゃないでしょうか。なぜならゴリッゴリの鬼ギャルはこええから。言うこと聞かなそうだから。コントロールできなさそうだから。そう考えると、別に生活の面倒見てくれるわけでもないのに勝手な願望ばかり押し付けてくる「国民」に、高梨選手はオルチャンメイクで「NO」という意思表示をしているようにも思えてきます。
愛車のベンツもとやかく言われ
メイクのみならず、愛車の「メルセデス AMG G 63」にまでとやかく言われていたのも解せないですよね。特に「20歳そこそこの娘が乗る車ではない」という分かりやすい嫉妬に紛れて散見された「ベンツのSUVは雪山を走るのに最適な車だから間違ってない」という、一見擁護の体を取りながらその実遥か上空からのジャッジメント。
たとえば自分が酒を飲む、音楽を聴く、映画を観る、ちょっとおいしいもの食べる、服を買う、車に乗る、家を持つ……そういう日常の選択に対して「それでモチベーションが上がるならOK」とか「まだまだその身分ではない」とか、いちいち「許す」「許さない」の判断をされたらどうでしょう。なんでこっちのカネでやってることなのに、てめぇに口出しされんだよと、きっと校舎の窓ガラスのひとつも割りたくなるに違いない。それが分かっているのに、私たちは「国民」「視聴者」「ファン」などデカめの主語を与えられると、いともたやすく対象者にそれをぶつけるようになるのです。ナショナリズムの怖さって、こういうとこにもありますね。
とにかくもう、あんな高いところからすべってきて、100m以上も飛んで、なおかつ着地するんですよ。それってヤバくないですか? そんなことやろうと思うのがまずヤバくないですか? そもそも凡人の地平で語るべきではないんじゃないかと思ってしまいましたよ、ここまで書いといてなんだけど。
戦い終えて ©雑誌協会代表