ーーー 複刻記事 ーーー
幽霊駅 そのころの東ベルリンの地下鉄には幽霊駅があった
テーマ:考えたこと 想い出したこと 読んだ本(329)
カテゴリ:【東欧】での想い出
ちょっと趣を変えて、旧共産圏の東ドイツでのビジネスの話です。
この話は以前にも書いたので、一応【復刻日記】とも言えますが、東西冷戦が終わって、もう時効となったので、今なら書けることもあるわけで、かなり書き足しをしています。
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ドイツが東西に分かれていた時代の事です。
私は東ドイツ(共産主義体制の方のドイツ)と、ある工場施設の輸出商談の交渉をしていました。
日本側は私の商社とあるメーカーがチームを組み、商社のリーダーは私でした。
相手側は、東ドイツの貿易公団です。
貿易公団も一種の商社で、最終的なユーザーは東ドイツの工場。
私が滞在していた頃は、ベルリンもまだ西ベルリン(西側)と東ベルリン(共産圏側)に分かれてました。
私の会社のオフィスのある西ベルリンから、オフィスの無い、客先の東ベルリンへ毎日通勤?していました。
毎日の交渉は、朝9時から、夕方6時頃まで、びっしりです。
その内容を東京に報告する
それは時差があるので主にファックスでやっていました。
それに対して、折り返し返ってくる東京の返答を、翌朝、受け取らなければいけません。
その返答の内容とは、メーカーからの技術的な解答だったり、客先に示すプラントの部分の値段だったり、様々です。
東京への詳細な報告書を書くだけで2時間ほどかかります。
だから、時間的なことを考えれば、もちろん東ドイツのホテルに宿泊した方がいいのです。
しかし、それを東ベルリンのホテルでしていたのでは、盗聴している東ドイツ側に情報が筒抜けになります。
だから、毎日、交渉が終わったらいったん西ベルリンに帰ってから、深夜、交渉の報告を東京にファックスで送ったのです。
翌朝は、東京からの返答のファックスを見て、東ドイツの客先に向かう。
これは睡眠時間がほとんど取れない、厳しい毎日でした。
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東ベルリンの雰囲気は華やかな西ベルリンから180度ちがっていました。
だいたい中欧・東欧の冬は、日も短く、雲が低く、昼間と言えど夕方のような薄暗さ。
温度も零下10度程度の厳寒です。
それよりもなによりも、当時はまだ東ベルリンから西ベルリンへの脱出者がいたころでしたから、国境や駅は、非常に暗いし、東ドイツの完全装備の兵士が大勢立っていて、実に重苦しいものでした。
電車で西側から東側に入る寸前、高架の上から川沿いに伸びるいわゆるベルリンの壁が見えて来ます。
壁の周辺は地雷原になっている事が多く、ここで脱出を試みた多くの人びとが射殺されたのです。
中には西側にトンネルを掘って脱出した人々もいます。
そんな題材のドイツ映画「トンネル」という映画があるそうですが、私は未見です。
「寒い国から帰ってきたスパイ」「第三の男」
鉄のカーテンをめぐるストーリーの映画も多いですね。
通勤と言っても暗い雰囲気の東ベルリンの駅に到着してからパスポート・コントロール(入国管理事務所)でONE DAY VISAをもらい、税関を通り抜けるまで、それだけで片道たっぷり一時間かかるのです。
ホテルからのDoor to Door なら、片道二時間以上かかるのです。
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ビジネスの面でも東ドイツの人間は、これ以上ないほどのハード・ネゴシエイターで、
そういう相手と厳寒の中、通勤を含めて朝から晩まで、受注の見込みが見えないまま数ヶ月ハードなネゴ(交渉)をしたのは精神的にも肉体的にも辛い経験でした。
客先で出してくれる昼食も、固い食パンにサラミとピクルスをのせたオープンサンド二枚と、ガス入りのミネラルウォータ、それに紅茶だけというスパルタンなもの。
面白かったのは、東ドイツ側の人間は、このオープンサンドをナイフとフォークを使って、切って食べていたことです
われわれも、なんとなく、この食事法を真似るようになりました
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そんな長いハードネゴが延々と続く中、ある日相手側の部長(女性)が、休日に博物館見物に誘ってくれました。
実はこんなに長いあいだネゴをしていても、競争している会社の状況がさっぱりわからず、だからといって公式のネゴの席ではとても聞けるものではなく、困っていた私たちに彼女がチャンスを与えてくれたのです。
どういうことかと言いますと、私たちに同情した彼女が博物館の中で人混みに紛れながら何気なく会話をする中で、少々のヒントをくれたのです。
スパイなどが情報を渡す場合もあえて公衆の中でメモをやりとりする事が多いようです。
博物館の群衆の中でなら、東側の当局に怪しまれる事があまり無く、しかも、私達の会話を聞き取る事が出来ないような。
そういう場所を選んでくれたようです。
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長い長い商談が大詰めにさしかかって(少なくとも私たちはそう思っていました)、そろそろ契約調印かと私たちは思った私は、本社の取締を呼んで、ライプチッヒの見本市期間中に調印すべく待ちかまえていました。
しかしながら、その商談は、最後の最後の段階で、予想外の思わぬ出来事が起こりました。
東独では毎年、夏にライプチッヒで大きな見本市が開かれます。
契約の調印は、その当たりらしいという情報が入っていたので、私は日本の本社の取締役を呼んで、調印式でサインしてもらう手配をしたのです。
サインのための高価な万年筆も購入しました。
取締が到着して、東独の貿易公団の人間に挨拶をしていると、ある党幹部が突然現れました。
彼は初対面の人間ですが、彼からの自己紹介で、数社ある貿易公団を総括するトップの人間であることがわかりました。
その席上で、彼はなんと、当社の取締に、公団への寄付金を要求したのです。
あとで聞く話では、その種の「寄付金」は、公団の秘密資金に回されるのだと言うことでした。
多分、そうなんでしょう。
日本の役所もやっているような。
悪いことに当方側の取締役は、営業出身ではなく、ずっと総務・人事畑を歩いてきた頭が特別固い人で、先ず含みを持たせた返答を相手側にして、時間稼ぎ、様子見をすればいいものを、この要求をアッサリはねつけてしまい、後で考えれば、ここで実質的に当方の敗北が決まりました。
取締役は面子をつぶされたと言い、私は叱責を受けました。
これで私の出世は無くなりました。(笑)
それまで、中東で、数件の巨額のプラントを受注していたのにね。(笑)
商売が生業の商社にも、中には、こういう、どうしようも無いセンス皆無の人間がいて、しかも、そういう人間が取り締まりにまでなったりするのですから、かないません
この取締は、当社のインドネシアビジネスの話をよく聞かされていて感心していたとのこと
知っている人もいるでしょうが、インドネシア・ビジネスというのは、いわば、賄賂のビジネスです
どこの商売でも賄賂は多かれ少なかれありうるものですが、インドネシアのビジネス慣習には、賄賂がしっかり組み込まれていて、日本のみならず、各国も、そんなビジネス慣習の中で商売をやる訳で
したがって、客先とつーかーの仲になれば、利益率の大きな商売が出来ます
この取締は、この最も過酷な東欧商売に、インド遠視阿南の大きな利益率の商売を期待していたのです
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東独側の貿易公団も、私たちを担当していた公団の他に数社あったのですが、このプラント・プロジェクトに関しては、ライバル公団の方が政治力が強く、、我々の見積もり条件や価格はライバル・グループに知らされていて、現状としては負けらしいという状況がわかったのです。
東独側は、それまで長い間、われわれと真剣に交渉しているふりをしながら、われわれから技術資料を始め、あらゆる情報を入手して、その一方で、本命の某社と契約する予定だったのです。
そういえばあの女性部長も、私が「調印式のために取締役を東京から呼ぶ」と彼女に告げたとき、彼女はなぜか?「呼ばなくてもいいのではないか?」と、少し微妙な、気の毒そうな表情をしていました。
もし、私が、もっと鋭ければ、この時に我々の置かれたポジションを察することができたかも知れません。
いや、やっぱり無理だったかな?
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まあ実際のところ、それまでの超ハードネゴで、当方の採算は赤字ギリギリとなってしまっており、その後東独側から要求された東独事務所の新たな設立などを飲めば、さらに赤字が確実でした。
それまで私がリーダーとして受注した数件の中東プロジェクトでは、すべて何億円という大幅な利益を出しており、担当メーカーの工場も、○○景気と呼ばれる利益を享受していたのですが、この共産圏の商内は、全く様相がちがいました。
東独商内のノウハウを持っていなかった私、および我が社の限界でもあったのですが、それは東独にプラントの実績がほとんど無かった我が社の限界でもあったのです。
一般に共産圏のメーカーとのビジネスは、一件のみでは利益が出ないもので、数件まとめて、トータルで、だんだんうまみが出てくるものだったようです。
はじめの一件は赤字でも名刺代わりに受注し忠誠心を示し、事務所を設置してから、いろいろな関係が構築され、相互のあうんの呼吸で、利益の出るビジネスが与えられた様です。
別の言い方をすれば、双方が癒着することにより、双方に利益がでる。
癒着は共犯ですから、共犯の仲間意識が出てくる。
そこまで信頼感?共犯関係を勝ち得るまでが大変なのです。
今考えれば、中東が主戦場だった私は、ビジネス・ノウハウが全然異なる共産圏のビジネスに手を出すべきではなかったのです。
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話は変わりますが、共産圏の国の中では、訪問してみると、やはり東ドイツが一番緊張感がありました。
国民性・優秀性もその原因。、
逆に言えば、いろいろな事情で怖かったという事です。
その後の共産圏でのビジネスでは、その他の国々でも、ちょっと怖い体験はいろいろありましたが。
何度か、スパイ、またはその手先らしき人物から、電話や実際のコンタクトがあったり。
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閑話休題
そのころの東ベルリンの地下鉄には幽霊駅というものがありました。
東西を区切るベルリンの壁の下あたりに駅があるのですが、
その駅は東側から西側への逃亡を防ぐため閉鎖されていて無人、もちろん停車もしません。
そのまさに幽霊のような暗い無人の駅を地下鉄で通過する時など、実に陰惨な雰囲気でぞっとしたものです。
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少し前に東ベルリンを訪問した時には、昔の暗い雰囲気がガラッと変わって、西欧化していました。
あの幽霊駅も、使用されているということでした
今となっては、あの暗く重い空気の東独そのものも無くなってしまって、私の想い出の中に残るだけです。
あの幽霊駅のように、通り過ぎる時に見えるだけで、実際には下車できない想い出のような。
こんな事を書いていると、いろんな記憶が、チリチリとした冷気と共によみがえってくる様な気持ちになります。
「寒い国から帰ってきたスパイ」
こういう題名のル・カレの傑作スパイ小説があって、映画にもなっています。
この想い出記事では
国際ビジネスの裏側をかなり詳細に書いた
今は亡き東ドイツ
私にとっては、苦い想い出の国である