記事 中国と朝鮮は歴史上どのような付き合いをしてきたのでしょうか? やはり中国優位だ... ヤフー知恵袋 このコメントがどの程度正しいのか? sav********さん 2011/4/510:04:22 中国と朝鮮は歴史上どのような付き合いをしてきたのでしょうか? やはり中国優位だったのでしょうか? また中国が武力行使にでた事はあるのでしょうか? 共感した 0 閲覧数:17,216 回答数:6 お礼:25枚 ベストアンサーに選ばれた回答 ーーーーーーーーー fro********さん 2011/4/513:19:18 朝鮮半島は、 BC195年から、下関条約によって独立する1895年までの2090年の内、 1584年間も中国の実効支配を受けています。 その間に何度も中国の侵攻をうけています。 朝鮮は古代以来中国文明の大きな影響を受けてきました。 『三国史記』によると、 殷王朝が滅ぶとき賢人「箕子」が朝鮮へ来て、 中国の文明を伝えたとされます。 中国が秦・漢によって統一されるころは動乱の時代で、 朝鮮は漢の武帝によっていったん滅ぼされました。 そこに楽浪郡などの四郡(ほかに臨屯・玄莵・真番)が設置され、 そのうち楽浪郡が長く残り、後にその南の一部は帯方郡となります。 魏志倭人伝などに見る、 239年の邪馬台国の卑弥呼の使いはまずここを目指しました。 朝鮮建国から清国からの独立までを、年表的にまとめると、 BC195年 燕の将軍、衛満が建国。 考古学的に検証されているのはこの国から朝鮮の歴史が始まります。 ■BC108年 漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼします。楽浪郡など四郡を設置します ↓ 【漢.晋の実効支配(421年間)】 ↓ ■313年 高句麗が楽浪郡を滅ぼします。中国の出張所を排除します。 614年 隋の煬帝、高句麗遠征失敗 660年 新羅・唐連合軍、百済を滅ぼします。 ■668年 新羅・唐連合軍、高句麗を滅ぼします。 唐は、安東都護府を平壌に置きます。 ↓ 【唐の実効支配(250年間)】 ↓ ↓676年 ↓新羅が朝鮮半島を統一します。 ↓ ↓735年 ↓新羅が唐から大同江以南の領有を許されます。 ↓ ■918年 高麗(コリョ)建国されます。後高句麗の豪族、王建が新羅を滅ぼします。 ▲936年 ↓高麗による半島統一がなります。 ↓[統一期間:27年間] ↓ ■963年 ↓宋に服属します。 ↓ ↓994年 ↓契丹に服属します。 ↓ ↓1126年 ↓金に服属 します。 ↓ 【宋・契丹・金の実効支配(296年間)】 ↓ ■1259年 高麗、モンゴル帝国に服属します。 ↓ 【モンゴル(元)の実効支配(133年間)】 ↓ ↓1274年 ↓元軍に属し、日本に遠征します。(文永の役) ↓ ↓1281年 ↓元軍に属し、日本に再遠征します。(弘安の役) ↓ 元の属国となった高麗は、二度の日本侵攻(元寇)の前線基地となり、 多大な負担を強いられます。 朝鮮(高麗)は、元軍に属し、とはいえ、日本に二度も侵攻しているのだ ■1392年 ↓李成桂、朝鮮建国します。 ↓国号は明の皇帝によって決められました。 ↓ 【明の実効支配(244年間)】 ↓ 1592年、文禄の役。1597年、慶長の役の戦乱で、 朝鮮は崩壊寸前まで追いやられ、明も国力は弱体化し、 滅亡の遠因になりました。 これは、日本からの侵攻 1627年、後金は明と同盟関係にある朝鮮に侵攻します。 朝鮮軍は敗北を重ね、皇帝は江華島へ避難します。 その後、後金に服従することで講和が成立、後金軍は撤退します。 ■1636年 後金は国号を清とし、 清に服従することと明討伐の派遣軍3万の提供を要求してきます。 朝鮮はこれを拒否、清は12万の大軍で侵攻します。 朝鮮軍はなすすべもなく40日あまりで降伏。 朝鮮は明と断交すること、王子を人質に差し出すこと、 莫大な賠償金を支払うなどの屈辱的な講和条約を結ばされます。 また、朝鮮王の仁祖は、 清の皇帝の前で三跪九叩頭の礼を行い、服従する誓いをさせられました。 ↓ 【清の実効支配(240年間)】 ↓ ■1876年 日朝修好条規締結。朝鮮開国されます。 ▲1895年 下関条約により、朝鮮が清より独立しました。 清朝と朝鮮との関係は、 「朝鮮と清国の従属関係について、簡単にまとめれば、 (中略)細かく定められた貢品以外に、 毎年、牛3000頭、馬3000頭、各地の美女3000人を選り抜き、 清国に朝貢することが義務づけられていた。」 (黄文雄『中国・韓国の歴史歪曲』) という記載が見えます。 貢女3000人は誤解ないし、誤訳と思われますが、 高麗史の元宗15年(1273年)には、140人の貢女、 忠烈王元年(1275年)は10人、 忠烈王2年(1276年)は5人、 という記述があるように、 「宦官」の供給源だったのも確かみたいですから、 「朝貢」の一つとして、 毎年数十人程度の宮廷の雑用係(宦官)や、 貴族や豪族の家僕(男女)、農奴(男女)としての、 中国入国はあったものと推測します。 ただ、これは朝鮮だけが隷属していたわけではなく、 華夷思想によって、 人間を「華」と「夷」の二種類に分類し、 完全な人間存在であるとされる「華=(中国)」の側が、 「文明」「文化」を共有していない点で、 不完全な存在である「夷=(朝鮮・日本を始めとする外夷)」 の側に対する優越を主張する中国伝統(?)の思想からきています。 正式に朝貢を欠かさなかった冊封国としての地位は保持していたわけですから、
出て行くものはありましたが、実入りもそれなりにあったものと思われます。 ナイス 47 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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