カテゴリ:🔴 B 【本・読書・文学】【朗読】
記事 村上春樹の小説を僕が嫌いな理由 2018年07月10日(火)18時30分 コリン・ジョイス Edge of Europe 村上春樹の小説を僕が嫌いな理由 村上が世界的な現象であることは確かだ Kim Kyung Hoon-REUTERS <奇妙な展開だらけの村上作品の世界的ヒットは特徴ある商品が上手に売られている感じ ――文芸評論家でもない一読者としての私的作家論> 話のできる猫、未来を見通すカエル、謎の羊、消滅する象。時間移動、パラレルワールドの扉、消える語り手......。 これを読んで「もっと聞かせて!」と思った人は、きっと村上春樹の小説のファンだろう。逆に、わずかでも現実に起こりそうなことを書いた小説が好きな人なら、僕と同じく、あんなバカバカしくて不合理な話を、この分だと結末もまともではないなと思いながら何百ページも読む気にはならないはずだ。 村上が世界的な現象であることは確かだ。彼の本は大ヒットし、数十の言語に翻訳されている。 村上は、僕がロンドンのバスやニューヨークの地下鉄の中でその作品を読む人を目撃したことのある唯一の日本人作家だ。大江健三郎や谷崎潤一郎を読んでいる人など一度だって見たことはないが、村上を読む人を見掛けたことはたくさんある。世界の多くの読者にとって、村上こそ日本文学なのだ。 日本が好きで、本が好きで、おまけに時々は走るし、神戸に住んだこともある僕にすれば、村上は気に入ってもおかしくない作家だ。実際、僕は彼を好きになろうとしたが、逆に嫌いになってしまった。 僕にとって村上の小説はとても長くて、信じられないこと(悪い意味で)が書かれているだけでなく、 偉大な文学が持つ意義や洞察に欠けている。 村上の読者は感銘を受けているのだろうが、僕はヤギの口から出てくる「リトル・ピープル」や、月が2つある世界を読むと、そこにどんな意味があるのか知りたくなる。何の意味もないのなら、奇妙さ自体に価値があるとされているわけだ。 しまいに僕は、村上の物語に入り込めなくなった。 何が起きてもおかしくない世界では、いくら物語が展開してもあまり衝撃を受け得ないからだ。 物語の重要な場面に差し掛かり、主人公はどうなるのかと頭を悩ませていたら、彼が10年前の世界に飛んでしまったり、突然2000歳のキツネが登場したり......という経験を僕はしたくない。 あの長さはなぜ必要なのか 多くの人と同じく、僕が初めて読んだ村上の小説は『ノルウェイの森』だった。けっこうセンチメンタルな物語だと思ったが、スタイルの面では優れた点がたくさんあった(それに、まだ物語として形を成していた)。 『羊をめぐる冒険』は、僕が大人になって初めて、自分で選んでおきながら途中で読むのをやめた本だ。『アンダーグラウンド』はノンフィクションの秀作だが、村上作品の中では彼のボイスが最も聞こえないと思った。『神の子どもたちはみな踊る』のような短い作品には読み切ったものもあるが、『1Q84』のように1000ページを超える作品は手に取っていない。 村上のファンにすれば、そんな僕には村上作品を語る資格がない。「読んでもいないものを批判するのはおかしい」というわけだ。だが、あの旺盛な執筆量からすると、村上のファンでなければ作品を全て読もうとは思わない。誰かが考えた策略ではないだろうが、「村上作品を批判する資格があるのは彼の作品が好きな人だけ」なのだ。 僕としては、彼の考えを伝えるのに、あれだけの長さが本当に必要なのかと問いたくなる。大長編は非常に優れているか、非常に重要な作品でなくてはならず、さもないと自己満足に陥りかねない。『戦争と平和』や『ドン・キホーテ』は、この条件を満たしている。さて、村上はどうだろう? 村上作品に長所がないわけではない(あの執筆のスタミナには敬服する)。むしろ僕が気になるのは、村上の人気が不相応に高いということだ。 この点へのいら立ちは、日本でよりイギリスで強く感じる。日本のファンは他の日本人作家も読んでいるだろうが、外国のファンは日本人作家の中では圧倒的に村上を読んでいる。僕としては村上だけでなく、『個人的な体験』や『坊っちゃん』『細雪』『雪国』も読んでもらいたいと思う。できれば村上作品より先に。 村上はジョージ・オーウェルやフランツ・カフカなど他の作家にさりげなく言及する。 音楽家についても同じことをよくやっている(ヤナーチェクやコルトレーンなど)。 ひいき目に見れば偉大な作家たちへのオマージュだが、 シニカルに見れば自分が偉大な先人に近づいたことを暗に伝えようとしたり、 彼らの名声を借りようとしたりする行為だ。 ファンも魅力を説明できない どちらにしても、村上の作品と彼が触れている作家の作品を比べたくなる。『1Q84』はオーウェルの『1984年』の6倍も長いが、同じほど重要な作品だと誰が言えるだろうか。『審判』が書かれてから100年が過ぎ、「Kafka-esque(カフカ的な)」という言葉は普通に使われている。100年後に「Murakami-esque(村上的な)」が広く使われているとは思えない。 多くの人が村上作品を楽しんでいるなら、その人たちにはいいことだろう。ただし僕が村上ファンと話をすると、いつも彼らは村上を支持する説得力ある理由を言えない。「特別な魅力がある」とか「作品の空気が好きなんだ」と言うだけで、村上が何について書いているのか、なぜ村上が重要かを理解できるようなことは言ってくれない。 あるファンが週刊誌に、村上を理解する「マスターキーはない」と書いていた。 「私は隠れた意味を探すのをやめた。そうすることをおすすめする」 だったら、村上は文学の殿堂に入るにはふさわしくないだろう。 僕にとって村上は、どちらかといえばポップな現象のように思える。 特徴ある商品が、上手に売られているような感じだ。ただ、それは必ずしも悪いことではない。 以前、村上ファンの多い所に居合わせたとき、僕は自分の考えを分かってもらおうと、彼らのヒーローはどちらのグループに入るのが自然かと尋ねた。 1つは、サミュエル・ベケット、ジェームズ・ジョイス、ドストエフスキー、オーウェル......。もう1つは、レディオヘッド、ポール・オースター、デビッド・リンチ、村上隆・・・・・・。 <本誌2018年5月15日号『特集:「日本すごい」に異議あり!』より転載> 村上春樹が、1990年から四年間、アメリカで暮らしていたときのことである。 最後の1年間はプリンストン大学で日本文学を教えていた。そのときのことを彼のエッセイ『やがて哀しき外国語』 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.08.16 23:32:04
コメント(0) | コメントを書く
[🔴 B 【本・読書・文学】【朗読】] カテゴリの最新記事
|
|