カテゴリ:M【映画】 女優
★ 記事 ドリフ 仲本工事 77歳 今だから語る 「いかりやさんとの“バカ兄弟”が一番難しかった」 笹山 敬輔 2018/09/02 17:00 ドリフ全盛の時代 多くの人の心に残り続けるドリフのコント。黒ぶちメガネでおなじみのメンバーといえば仲本工事さんです。高木ブー、加藤茶との出会い、「バカ兄弟」の兄・いかりや長介の素顔、音楽担当だった草創期の話……、77歳の今だからこそ語れる秘話をたっぷりとお伺いしました! (全2回の1回目/ #2 へ続く) © 文春オンライン 仲本工事さん。インタビューは経営するお店で行われた ◆ 加藤はまだ10代でさ、ドラムに一生懸命な少年だった ―― こちらの「仲本家JUNKAの台所」は、奥様の純歌さんと二人でされているんですか? 仲本 そうです。ここはかみさんが仕切ってて、僕は注文とったり料理を運んだりする使用人(笑)。 ―― ドリフファンにはたまりませんね。 仲本 僕が東京にいるときはほとんど店にいるんで、今度ぜひ来てください。隣にカラオケの店もあって、今日はここで取材受けます。 ―― ありがとうございます。先日、高木ブーさんにインタビューさせていただいたんですが、とても反響が大きかったんです。 仲本 あっ、そうなの。ちゃんと喋った?(笑) ―― はい、貴重なお話ばかりでした。ぜひ仲本さんにもお話をお聞きしたいと思いまして。 高木さんと同じく、仲本さんも最初はミュージシャンですよね。きっかけは? 仲本 大学生のときのアルバイトだね。僕は、中学から高校まで体操部に入ってたんだよ。東京の大会では、いい成績を収めたこともあります。このままいけば、大学4年で東京オリンピックに出られるぞって、続けたい気持ちもあったんだけど、学習院大学に体操部がなかったんだよね(笑)。それで、たまたま友達に誘われてジャズ喫茶に行ったとき、何か歌えよって言われて、飛び入りで歌ったの。そのときのバンドがクレイジー・ウエスト。なぜか気に入られちゃって「明日から来てくれ」ってことになってね。そのとき、ドラムを叩いてたのが加藤茶。 ―― はじめて加藤さんに会ったのはジャズ喫茶だったんですね。印象はどうでしたか? 仲本 まだ10代でさ。ドラムに一生懸命で、かわいらしい少年だったよ。 高木さんに呼ばれてギターの代役、それでドリフメンバーになったの ―― その後、パップ・コーンズに移籍されるんですよね。 仲本 うん。ジェリー藤尾さんの『遠くへ行きたい』が大ヒットして、営業用のバンドを作ることになったんです。それで前座の歌手をオーディションするというので、行ったの。20人くらいの応募があったみたいだけど、どういうわけか僕が選ばれた。今になって考えてみると、僕がまだ学生だったから、安い給料ですむと思ったんじゃないかな(笑)。で、そこに高木ブーさんがいた。 ―― メンバー同士の出会いの話って、ファンとしてはワクワクしますね。高木さんの印象はいかがでしたか? 仲本 うーん、特に印象はないんだけど、なんか太った人がいるなあって(笑)。でもね、バンド自体は音楽のレベルがすごく高かった。そのころ、コーラスをやるバンドはそんなになかったんだけど、そんな中でフォー・フレッシュメンなんかの曲を歌ってたからね。僕も大好きで、大学を卒業するころまでやってました。 ―― その高木さんがまず、いかりやさんに誘われてドリフターズに参加。仲本さんは高木さんの仲介でドリフに参加されるんですよね? 仲本 そう、急遽ギターの代役で呼ばれたんですよ。たしか大学を卒業して就職しようと決めていた頃だったんじゃないかな。ドリフにはすでに、かつてのバンドで一緒だった加藤もいてね。で、結局そのままドリフメンバーになったの。 「俺が話をするから」って、いかりやさんが家に来た ――ドリフに入ることを決めたことに、お父様は大反対だったとか。 仲本 そりゃそうだよ。当時はギター持ったら不良と言われた時代でさ。大学まで出してバンドなんてとんでもない。親としては、何のために大学に行かせたんだって話だよね。その親父を説得したのが、いかりやさん。僕はいかりやさんに「たぶん説得は無理だと思うよ」って言ったんだけど、「俺が話をするから」って自宅まで来た。 ―― どんな会話があったか覚えてますか? 仲本 いや、最初は親父といかりやさんの二人っきりで話してたから分かんない。僕は、あとから部屋に呼ばれてね。そこで、いかりやさんが「俺が辞めるときは一緒に辞める。それまでは責任持つから、ぜひともドリフターズに参加させてくれ」って頼んでくれて、親父も折れた。まあ、いかりやさんのあの顔見たら、うんとしか言えないよね(笑)。 ―― ドリフ草創期の名場面ですね……。お父様は職人さんだそうですが、厳しい方だったのではないですか? 仲本 親父の言うことは絶対だったね。頑固一徹の靴職人で、休みなく朝から晩まで働いてました。とにかく厳しくて、反発しようと思ったことなんてなかったな。今から思えば、一度だけ逆らったのが「ドリフに入る」って言った、あのとき。 沖縄と東京で、僕は戦争中に2回命拾いしてるの ―― 実は、仲本さんの生い立ちが漫画になってる記事を発見したんです。1971年8月の『明星』なんですが。 仲本 えっ、何これ。知らなかったよ! わぁー、通信簿まで出てるよ(笑)。 ―― ご両親は沖縄出身で、それぞれ単身で東京に出てこられたんですね。ここに、「戦争中には沖縄へ疎開した」と書かれてますが。 仲本 そう、生まれてすぐだから、僕は覚えてないんですけどね。2歳くらいのときかな。おふくろの夢見が悪くて、すぐに東京へ戻って来たらしい。そしたら、ちょうどその直後に沖縄が大空襲にあった。東京でもそんなことがあって、僕は戦争中に2回命拾いしてるの。 ―― 沖縄は終戦から長らくアメリカの統治下にありました。仲本さんには沖縄への思いってありますか? 仲本 返還になる前に、両親を連れて沖縄へ行ったことがあるの。親父が住みたいんじゃないかと思って、土地を見て回った。でも、帰る気はなかったみたいだね。そのとき、初めて親父の実家にも行ったんだよ。びっくりしたのが、親父のお兄さんが「お土産にヤギ1頭持ってけ」って言うんだよ。ヤギは貴重なんだろうけど、東京のどこで飼うんだって(笑)。 ―― お父様は、東京で最期を迎えられたんですね。 仲本 親父がガンを患ってね。そしたら、そのお兄さんに親父「お前、迷惑かけるなら早く死ね」なんて言われて。もうびっくりしちゃった(笑)。農家だから長男しか大事にしないんだね。だから親父逃げだしたんだなって、そのときはっきり分かった。 今でも思ってるよ、なんで僕コントしてるんだろうって ―― ところで、ドリフに入った仲本さんは最初「音楽担当」だったんですよね? 仲本 そうそう。ドリフというのは音楽をやりながら、音楽ネタのコントもするバンドだったわけです。でも僕はコントなんてできない、向いてないと思ったから、譜面を書いたりする音楽担当ならって引き受けたんです。 ――音楽担当とは、どんな役割なんでしょう。 仲本 『ホイホイ・ミュージック・スクール』という番組では、毎週3人の歌手オーディションがあったんです。その伴奏のアレンジを任されて、譜面書いてました。ほかにもジャズ喫茶のネタの譜面も書かなきゃいけない。ドリフの音楽ネタは、曲を完璧に仕上げてからコメディーに崩していくの。だから時間がかかるんだよ。下手すりゃ1ヵ月くらいかかることもある。でも、それじゃテレビの撮影ペースに追いつかなくなるよね。それで、だんだんコント主流になっちゃったの。 ―― 音楽担当としては、どんなお気持ちだったんですか? 仲本 自分ではコントやるつもりはなかったからさ、なんでここまでいかりやさんに叱られながら、好きでもないコントの稽古してるんだろうって。今でも思ってるよ、なんで僕コントしてるんだろうって(笑)。 ビートルズは譜面が書きにくかった ―― 今でもですか(笑)。そんな中、1966年のビートルズ来日公演では、前座として出演されています。 仲本 あれは正直、僕らとしては出たくて出たわけじゃないんですよ。とにかく毎日忙しくて、余分な仕事が入ってきたなって感じ(笑)。 ―― その頃、仲本さんはミュージシャンとして、ビートルズをどういう風に見てましたか? 仲本 思い出すのは、譜面が書きにくいなあってこと。ドリフではビートルズの曲もコピーしてやってたんですけど、コード進行が斬新すぎて写しにくいの。『抱きしめたい』とかね。だからこそ、音楽の歴史を変えたバンドって言われているんだろうけど。 いかりやさんが気にしてたのは「ウケるギャグのやめ時」 ―― 音楽ネタでどの曲をやるかは、誰が決めてたんですか? 仲本 それは、いかりやさん。まずギャグを考えて、そのギャグに相応しい曲を選ぶ。いかりやさんは、そのセンスに長けてたんです。そしてドリフは昔から、いかりやさんが決めないと何も決まらない(笑)。 ―― まさに強いリーダーだったんですね。 仲本 リーダーとして特にいかりやさんが気にしてたのは、「ウケるギャグのやめ時」。やっぱり飽きられてからやめちゃだめなんだよ。一番いい時にやめる。『全員集合』もそうだったんじゃないかな。いきなり「やめる」って言い始めたから。自分の疲れもあるだろうけど、やめ時を一番気にしてたね。 ―― 『全員集合』をやめると聞かれたとき、どう思いましたか? 仲本 いかりやさんがやめるって言うんだからしょうがないじゃん。いかりやさんが言うことは絶対だよ。社長なんだから(笑)。 「バカな子がいる家への配慮がない」って言われた「バカ兄弟」 ―― いかりやさんと仲本さんと言えば、『ドリフ大爆笑』のコント「バカ兄弟」が忘れ難いです。 仲本 実はあのコントが一番難しかった。僕が「あんちゃん、あんちゃん、これってどういう意味?」って聞いて、いかりやさんが間違ったまま話を展開していくパターンですから、内容をうんと深めていかなきゃならないんですよ。だから稽古時間がめちゃめちゃ長かった。まずテーマを決めて、いかりやさんと二人で掘り下げていくんだけど、薬の効能をネタにしたときなんか大変だったな。難しい漢字ばっかりで、バカ兄弟じゃなくても読めないものばっかりなんだもん(笑)。 ―― そんな知られざる苦労があったんですね……。 仲本 新聞見たり資料見たりして拾っていくから、けっこう作り方もネタも現代的だったよね。ただ、あのコントは一部からの抗議もあって、やめたんです。バカな子がいる家への配慮がないとか、ミもフタもないこと言われて。だけどね、あのコントは「仲のいい兄弟」というのがテーマなんですよ。あんちゃんのことを尊敬する弟、そんな弟をかわいがる兄という。そこのところが、知識人の先生方には伝わらなかったみたいで(笑)。 今、誰に会いたいかって聞かれたら、お母さんと、いかりやさん ―― いかりやさんが亡くなったのは、2004年のことです。体調が悪いことはご存知でしたか? 仲本 そんなに悪いとは思ってませんでした。亡くなる少し前には『大爆笑』のオープニングとエンディングを一緒に撮影したし、いかりやさんも「医者に行けば治るから」って言ってたからね。まさか亡くなるとは思ってなかった。 ―― じゃあ、第一報を聞いたときは……。 仲本 そうだね……。その日、僕は登別で芝居に出てました。そこへ連絡があってね。すぐに飛行機でお通夜にかけつけて、また仕事に戻らなきゃならなかったけど、あのときばかりは涙があふれてきてね。 ―― 仲本さんにとって、いかりやさんとはどんな人でしたか。 仲本 特別な人としか言いようがないよね。今、誰に会いたいかって聞かれたら、お母さんと、いかりやさんって言うもん。僕にとっては父親代わりの人でもあったからなあ……。でもね、僕らと同じく、ドリフのファンにとっても特別な人なんだと思う。だって、お店に来たお客さんにいかりやさんの話すると大喜びするの。まあ、もっぱら僕が聞かせるのは、“コントの鬼”だったいかりやさんの悪口なんだけどさ(笑)。 ( #2 へ続く) なかもと・こうじ/1941年東京生まれ。東京都立青山高校では俳優の橋爪功と同級生、2年上には柳家小三治がいた。学習院大学在学中から音楽活動を始め、のちにザ・ドリフターズに参加。現在は俳優としても活躍するほか、東京・緑ヶ丘で「仲本家 JUNKAの台所」を経営している。 写真=鈴木七絵/文藝春秋 1 2 3 4 エンタメの記事をもっと読む 「ちびまる子ちゃん」さくらももこさん追悼… スポーツ報知 福原遥「大人の味だなって…」 20歳の誕… サンケイスポーツ 中村福助、5年ぶり舞台復帰果たす 涙流す… デイリースポーツ こちらもおすすめ 大容量ラゲッジでキャンプの準備は万端! 日産自動車
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最終更新日
2018.09.21 18:22:27
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