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俳句・川柳―棲み分け論 伊藤岬 伊藤岬さんについて 俳句・川柳―棲み分け論 伊藤岬 「ひまじんさろん」で寺山修司論について書いているときに、読者から川柳と俳句の違いについて掲示板で質問を受けました。返事をしながら、自分の中で確認できたことなど掲載します。 文中に多くでてくる名前はハンドルネーム(仮名)です。 alexさんは元商社マンですが、博識で文学全般にも広い造詣をもっています。 双方のHPを行ったりきたりの長いやりとりでしたので、冗長部分は要約してあります。また、言葉足らずの部分も訂正してあります。この内容はあくまで僕の考えている川柳観ですが、不正確な部分や異論などございましたら、遠慮無くご意見をお寄せ下さい。 なお、このやりとりについて、HPで川柳界を批判しているのでは、という声も遠くから戴きましたが、批判や批評は文芸の進歩にかかせない、というのが僕の基本的な考えです。不穏当な表現があればお詫び致しますが、ここで語った内容は誹謗中傷ではないという確信があります。ご異論があればご遠慮なくお寄せください。 この場に併記して、検討いたしましょう。 寺山修司の句について alex 岬さんがネット日記で書いている寺山修司論を興味深く読んでいます。 昔、私の母が大阪の郊外で一人ぽつんと立っていた寺山修司を認めたそうです。驚いて彼を見つめていると、寺山の方も「ほう!私を知っているのか?」という風に母を見返したそうです。 戸山町には住んだことがあります。戸山ヶ原は昔は陸軍の演習場でした。 岬 寺山修司の作品が好きだという川柳人は多いと思います。しかし、日記のなかに書きましたが、当の寺山修司は川柳を文芸として軽蔑していました。 alex 桑原武夫が『俳句は第二芸術である』と言い切って物議をかもしましたが、そうすると、寺山修司は『川柳は第三芸術だ』と言わなければならなかったのかな? 岬 まさにそのとおりで、第三芸術以下という認識だったと思います。現在でも、川柳の一片だけにしか触れていない文化人の多くは、そんな認識ではないでしょうか。 alex 『かくれんぼ三つ数えて冬になる』私は寺山修司のこの句が好きです。でも、寺山が俳句だと思って書いたこの句は岬さんによると川柳だといいます。 私の解釈ではまさしく俳句の情景が浮いてきます。 北国の子どもが隠れんぼうをしている。鬼になって目を開いてみたら、みんなは隠れてしまっていて、見慣れた風景の中なのに人気が全く無い。日暮れの影のような世界の中に、ゾクッとと寒い冬の冷気が初めて感じられる。それまでの、子ども同士の無邪気に楽しい世界が突如反転して、寂寥の孤独の世界が出現する。 というものですが、この句には川柳独特のエスプリが無いと思うのですが―。 岬 ちょっと長くなりますが歴史的背景から説明します。俳句も川柳も、俳諧を源にする文芸です。俳句は芭蕉の「芭風」そして、正岡子規の「写生論」を経て芸術的高みに至ったとされています。俳句の柱は「モノ」であり写生したモノに作者の感慨を込めて表現します。 川柳は、付け句が独立したものですが、俳諧の「こっけいや軽み、穿ち」をひきづっています。「人情の機微」を表現することから発展してきた、《人の「コト」》が柱です。 川柳は、古川柳の懸賞投句と、長い「狂句」時代、新聞などでの大衆読者受けする、時事や世相風俗の機知を面白く捻った、一読明快な句を喜ぶ時代が長くつづきました。それ以外の川柳も創られてはきましたが、座の文芸ということで、句会などでシコシコと仲間内だけで楽しんでいました。このため一般人たちは、自分の目に見える、面白おかしい、エスプリの効いた俗情もの(だけ)が川柳と思いこんでしまっているわけです。 OnMyOwn そうすると、俳句は情景や自然現象を扱い、川柳は人間社会の下世話な観察を扱う、という解釈でもいいんですか? 俳句は哲学、川柳は文学というような印象を持ってましたが…。 岬 「哲学と文学」はいい視点ですね。下世話なことだけが人間のすべてではありません。しかし、最近は俳句と川柳のクロスオーバーが激しくなっていますが、俳人が俳句の下世話なものを川柳と称したり、川柳人も俳句もどきを書いたりして、いっそうわかりにくくなっています。また、能と狂言にたとえる人もいます。 俳句=能(侘び・寂び) 川柳=狂言(かろみ・笑い・遊び・風刺) 日常の「人情の機微」は広い意味で「穿ち」ともいえますが、「人のコト」が面白おかしいことだけでないことを考えれば、俗情だけが川柳の題材でないことはお分かりいただけると思います。 alex 俳句は「モノ」、川柳は「コト」が柱なんですね。 岬 alexさんは寺山の句をみごと川柳的に解釈しています。その感情の機微の表現こそが広義の「穿ち」であり、川柳の舞台であると僕は考えているのです。もっとも、表現は日々革新されていますから、現代の川柳はこれだけでは説明できていない部分もありますが…。 alex 前記の寺山修司の『かくれんぼ三つ数えて冬になる』ですが、この句は下世話な言葉づかいでもなく、その句の内容は、おっしゃるように川柳的解釈をすれば、深い精神性の世界を描いていると思います。 もし、この句を『ああ、知らない間に、冬の気配が忍び寄ってきた』という『季節感』としてだけ受け止めれば、『俳句』になるということですね? 岬 その通りです。俳句は、余韻を大事にしますから、読んだあとは屁理屈をいわずに句の余韻を楽しみなさい、という姿勢ですね。しかし「無邪気に楽しい世界が突如反転して、寂寥の孤独の世界が出現する。」とまでいってしまったらお喋りが過ぎます、ということになる。逆に、川柳ではそこまで解釈してしまいたいのです。 たあこ 私は『川柳』を『爆笑俳句』『ニヤリ俳句』だと思っていたんです。ときどき面白みがない「川柳」を見かけて疑問でしたが、そういうわけだったんですね。でもサラリーマン川柳は大好きです。 岬 第一生命が募集している、皆さんのお好きな「川柳」ですね、その優秀作を少し紹介しましょう。 コストダウンさけぶあんたがコスト高 女房が腹でしてみるだっちゅうの 恋人がいるかと聞かれ「はいいります」 面白いでしょう、一読明快誰でも笑えます。このような句を膝ポン川柳といいます。こうしたダジャレや語呂合わせ的な句が川柳だといわれることに、川柳人のなかには不快感をもっている人も少なくありません。では、その人たちはどんな句を作っているか、と思うでしょう。ところが、サラ川を批判する川柳人たちが一所懸命つくっているような作品が、寺山修司にかかればボロクソだったのです。「文芸と呼ぶのもおこがましい」と切り捨てられています。 僕も川柳人ですから、穏やかならざるものがあります、が、寺山の主張に頷かざるを得ないともしばし感じます。残念ながら、川柳人の僕が読んで面白くもおかしくもない、退屈な川柳が多いのは事実なんです。 alex そうなんですか、私もネットで岬さんの紹介する川柳を読むまで誤解していました。それにしても、川柳は誤解されることの多い芸術ですね。新聞の投稿川柳などは滑稽味・エスプリだけが中心のようですから…。 私の感想としては『なんだ! 川柳界の方々は、今までちょっと怠慢だったんじゃないの? 川柳って、こんなに深い人間性の精神世界に踏み込める可能性のある文芸なのに、もっぱら滑稽味ばかりに走ってしまい、結果的に川柳の地位を低くしてしまったのじゃありませんか?』と思ったものです。生意気な言葉ではあるのですが。 岬 はい。僕も含めて川柳人の多くは一般に啓蒙したり、外に向けてもきちんと読んでもらえる作品をつくってゆく努力が足りなかったと思っています。それとともに、日本の文化人や新聞などが、無条件に短歌・俳句を芸術的文芸、川柳を低俗な文芸と決めつけている無理解も指摘しておきたいのです。 それとですね、川柳をしている人たちも、なんでもありだからと、標語のような575を作って、川柳大会での入賞だけに血眼になり、若い人を育てたり一般人へ開かれた文芸にする努力が足りなかったと思います。 ご承知のように、啓蒙ということでは、過去には時実新子が大きくその役割を果たしていました。ただ、あまり偉大すぎて、新子亜流が増えすぎた面もありましたが…。現在では、ようやく短歌・俳句にまけない個性的な作品を書く新しいタイプの川柳人が揃ってきております。 しかしそれにもまして、マスコミがお手軽五七五を川柳としてどんどん宣伝してくれているものですから(苦笑) alex 私はどちらかというと俳句より、『精神川柳』(私の勝手な造語です)に興味が向きます。発句するのは、俳句の方がどちらかというと、易しそうな気がするのです。それに関連してモノ、コトの使い分けとしてお聞きします。例えば、『行く春を近江の人と惜しみける』という、芭蕉の句はモノだけでなく、感情のコトも含まれていると思いますが…。 岬 これは、春が過ぎてゆく様子を近江の人と惜しみながら良い季節を愛でている、という様子を句にしたものですね。感嘆は、コトですが、見た情景(季節=モノ)をそのまま心に映して詠んで、モノが柱になっています。こうした自然や季節の移ろい、つまり「モノ」から働きかけられる感興を柱にして俳句は詠んできました。一方、自由律といわれる、山頭火や尾崎放哉などの俳句はきわめて川柳的イメージで書かれていますが、やはり「モノ」からの働きかけによって書いている場合が多いのです。放哉の「咳をしてもひとり」は、病苦の憂いと孤独感がひしひしと伝わる名句です。独白を見事に表現していますが、表現はストレートで捻りはありません。そして、季語がなくても冬というモノを感じます。「夏でも咳きはするよ」という人もいるでしょうが、季語的には冬なのです。 川柳人は、「モノ」を感情の比喩として置いてゆきます(川柳人の中では、区分けを意識せず書いている人もありますが…)。「モノ」は「コト」を表現するための舞台仕掛けといってよいのです。 拙句で「朝顔描けば朝顔ひらきそうになる」があります。この句から、俳人は美しい朝顔とそれを描く人…、といったイメージを描くでしょうが、僕は川柳的に読めば、読者はもう少し淫らな想像に進むにちがいない、という姑息な計算の元に「朝顔ひらく」を使っています。この句で朝顔は句の柱ではなく、読者の妄想「コト」をひきだすための道具なのです。 一応お断りしますが、このように解説するのを「自句自解」といって普段はあまりしません。しかしここでは創作意図を理解していただくためにあえて解説しています。 alex NHK教育で、短歌の番組を何げなく観ていたのですが、『字余り』について、『確信犯的なクロスオーバー』についてコメントがありました。 「形式破りなのは承知での勢いのある字余りは、かえって迫力・思い入れが分かり、効果がある」と…、なるほど!と思いました。形式にこだわり、形式の中に安住することより、あえて形式を無視する勢い、思いは、わかる人にはわかるし、異様の魅力になる……と。 岬 はいそのとおりですね。ただ、技術の未熟から形式を無視するのは怠慢でしかありません。ここでは、これ以外ないというときに、破調(異形)は許されるべきものです。575以外は絶対認めないという堅物もなかにはおりますが、それは認識不足と申しておきましょう。 本人が川柳だといえば川柳か? olive 作った本人が川柳だといえば川柳、俳句といえば俳句ということを聞いたことがあります。 岬 今や俳句と川柳は作者名でしか区別がつかないという人はいます。しかし、この主張はどこか自己弁護的であり、大事な部分からの「逃げ」だと僕は思います。川柳人がつくっても、俳句は俳句。俳人がつくっても、川柳は川柳です。ただ同じ作品でも、川柳的解釈も俳句的解釈もできる句というものがありますから、これらは作者のジャンルで分けるしかないでしょうが、いままで語ってきたように分析してみれば、分別できるものは多いと思います。ただ、俳人が自分の句を川柳だとか、川柳人がこれは俳句だ、とは言いたくないとは思いますが―。 alex なるほど!と、深く納得致しました。それでもいい句は、俳句にしろ川柳にしろ、クロスオーバーを含有しているかもしれませんね。 岬 そして、僕にもいえますが、俳人も川柳人も新境地を開拓するためにお互いの国境を越える(あるいは確信犯的に越えたがっている)フシもあります。紛争地、あるいは男女の仲と同じですね。これ以上は越えてはいけないと思っても、その先にある何かを手に入れたくて、つい越えてしまう。後は野となれ山となれ…。 alex 付け足しですが、俳句は、対象としての自然界を観察したあと、一応自分の内的世界にそれを取り込み、また、それを自然界の対象に返す……ような気がします。いつまでも、心の中にとどめて、感慨に耽る事は無い。何か、禅のような。 一方、川柳は、自然界に限らず社会の状況などから感興・感慨を感じますが、その感慨・感興は心の中で、具体的なものとして定着する。 俳句は小学生からつくりますが、川柳は子どもにはむずかしそうですね。 岬 俳句は季語があるから形にしやすい。3分の1は始めからできているようなものです。歳時記から季をひいて、それに言葉を添えれば一丁あがり。だから、季語が頭に入っていれば誰でも俳句をたしなめるともいえます。しかし、それだけに添えることばの取り合わせのセンスで、力の差は天地ほど開きます。俳句は入るのは簡単そうだけれど、極めるのはなかなか難しい。 川柳は、基本的には、白紙からの出発になりますから、構成力や想像力(妄想力?)巧みな着地というものが必要となります。始めから一定の技術や経験がないと良い作品はできにくいものです。ですから、俳句よりはとっつきにくいかも知れません。しかし、俳句ほど言葉遣いの約束事や制約がなく、表現法や題材にはことかきません。コツをつかむと一定レベルまでらくにできます。 お年を召してから、呆け予防に入る人もおりますね。 alex 俳句では、季語という下駄を履かせてくれる。それにとりあえず写生をすればいいから、入門レベルの義務教育?までは、だれでも割合に楽に進学?できる。 一方、川柳は、感覚ではなく説明だから、即物的に解答がモロに出る。しかし、お互いに頭のキレで勝負をせざるを得ないという、逃げがきかないキビシイ世界。そう解釈してみました。 岬 そうは言っても、俳句も川柳も五七五の言葉遊びです。文芸人の自己満足、果てしないひとりよがりの世界です。しかし、ムダごとこそが文化で、日本語遊びの高雅なところです。俳人も川柳人も、言葉のとりあわせの妙を愛でて「ウン、ウン」と頷いているといったところですね。 英語俳句、英語川柳について olive 上野市で芭蕉生誕三六〇年 世界俳諧フュージョンがあります。アメリカとかイギリスの俳句協会から来た人が連句を行うそうです。 alex 『古池や 蛙とびこむ 水の音』 これを様々人が英訳していますが、私から言わせれば、全くダメです。とても俳句になっていません。 そもそも俳句とは、日本語でなければ成り立たない文芸です。日本語は膠着語という語族に入っています。朝鮮語・トルコ語・フィンランド語・エストニア語・マジャール語(ハンガリー語)などが、この語族だと思います。 しかも、単語がカバーする意味があいまいで、同音異語が多い。こういう言語でないと俳句は不可能だと思います。ただ、はじめから英語で作る俳句はそれなりのスタイルを成立させることが出来るかも知れません。あくまで可能性の問題ですが。 こうちゃく‐ご【膠着語】 (agglutinative language) 言語の形態的類型の一。実質的意味を持つ語や語幹に機能語や接辞を付けて、さまざまな文法範疇(名詞の格や動詞の法・時制など)を表す言語。日本語はその一例。スワヒリ語・トルコ語・朝鮮語などがこれに属する。付着語。 岬 僕は、語学に弱いので、正確には答えられません。感覚的にいうと、俳句の味わいは日本という風土と言葉があってこそのものだと思います。 たとえば季語が効かない世界で俳句をつくっても実感がない。俳句の優れた味わいどころは、言葉を放ったあとの空間です。英語で日本語と同じ空気を生みだせるかどうか…。むしろ川柳の場合は、基本的には意味(コト)ですから、外国語でも作りやすいような気がします。 alex そうですよね。英語だと単語が明晰すぎるので、意味の輪郭がクッキリとして、余韻が残らない。意味の幅出しが全然出来ない、ファジーな味を出せない。それに言葉のつながり方が違いますよね。 岬 外国から渡来した方々が、能や狂言、禅、陶芸、そして囲碁や日本酒など、日本文化に熱心に取り組んで、その人たちが、下手な日本人より文化の奥義を掴んでいると思えることがしばしばあります。 例えば、大相撲で朝青龍が横綱を極めましたが、僕には、風格とか、どこか違和感があります。その程度のことかも知れませんが、根底にある Soul や Spirits といった俳句・川柳文化の精神の部分を、英語で極めるのは困難な作業かも知れませんが、先にあげた例もあります。 相撲や囲碁などのゲームは、最後にはデジタル的に勝ち負けが判定できますが、短詩文芸は「余韻や言葉の空間、行間の伝達といったファジーな要素を楽しむ」文化だけに、それらしいものをつくることまではできても、感覚的に本質的なところまで入り込むのはとても難しいことではないかと、思っております。 しかし、日本文化としての短詩文芸を外国語で理解しようとしたり、楽しんでくれる人が増えてくれることは喜ばしいことで、外国人が挑戦してくれることには両手をあげて賛成します。 alex ここまで話し合うにあたって、川柳について、ネットであちこち調べてみました。基礎的形式についての説明はあったけれど、心に染みいるまでの納得の行く説明はありませんでした。極めて表面的で、もっと大切な、俳句と川柳の本質・精神について、説明しているものがなかった。それを岬さんは、いとも簡単に、私の心情的?疑問を汲み取って回答をくれました。これからは、俳句・川柳を、目からウロコというより、まるっきり違った視点で、眼鏡を新調したような……、そんな世界で解釈できるような気がします。 岬 過分なお言葉ですが、僕も先輩方の考え方から自分なりの焦点を結んでいるに過ぎません。たぶん、俳人や川柳人のなかには、「いや違う、これこれだってある」とさまざまな論を持ちだす人もいるでしょう。しかし、あえて強弁すれば、ほとんど、ローカルルールといっていい状態です。その人の周囲での通用にとどまっています。 俳句も川柳も、自分の都合だけに固着して主張していても、ダメです。俳句とは何か、川柳とは何か、という命題にわかりやすく、誰にでも認められる公式が求められていると思います。 もし、この説明では不足していると思われる方がいたら、どんどん議論に参加してください。議論は揉まれることで、内容も磨かれてゆくはずです。 alex 川柳が今まで思っていた軽薄短小なものではなくて、深く拡がりのある文芸だとわかって、とてもよかったです。これからも、岬さんがいい川柳としてお薦めできるものを、ネットのなかでどんどんご紹介ください。 岬 いいサイトもありますから、僕のリンクページからでも探してみてください。どうもありがとうございました。
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