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復刻記事 ベトナム戦争と開高健の鬱 2008.07.23 ~~~~~~~~~~~ 今日はベトナム関係ではあるが、復刻版ではない 「新稿!」である 少し長くなるが、まず、ある開高健関係の記事を引用する ~~~~引用開始~~~~ ■ ラピタ 2003年6月号 『開高健が見たベトナムを旅する』 ベトナムは小説家・開高健にとって特別な国だ。 小説家はその生涯に3度(65年、68年、73年)ベトナムを訪れているが、この国は小説家の内面に生涯消えることのない一撃を食らわせた。 34歳にして「これから後の人生はオマケだ」と思わされた国、いっときの歓楽に身をゆだねなければ生きていけなくなってしまった国、それが開高健にとってのベトナムだ。 日の丸持って戦場へ (前略) 現在はベトナム鉄道局が入っているこの建物の前で、今から40年前、1965年1月29日の早朝、1人のベトコン少年が公開処刑された。銃殺だ。10人の憲兵が10挺のライフルで少年を撃ち、直後に将校がこめかみにとどめの一撃を打ち込んだ。 その現場に、朝日新聞の特派員としてベトナム戦争に従軍していた開高健も居合わせた。 『銃音がとどろいたとき、私のなかの何かが粉砕された。膝がふるえ、熱い汗が全A身を浸し、むかむかと吐き気がこみあげた。』(『ベトナム戦記』朝日新聞社刊) このシーンは小説家の脳裏に鮮明に焼き付いて生涯消えることがなかった。 35年後に発表された遺作『珠玉』(文藝春秋刊)のなかにも、この処刑シーンが登場する。 『引金がひかれると学生の首、胸、腹などにいくつもの小さな黒い穴があき、血がひくひくしながらいっせいに流れだして、腿を浸し、膝を浸す。学生はうなだれたままゆっくりと頭を二度か三度ふる。』 この時期にベトナム行きを決意した理由について、小説家は出発直前のインタビュー(雑誌『文藝』65年2月1日号掲載)のなかでこう語っている。 「酢につかったみたいな東京の生活あきあきしてきた」からであり、「いっぺん歴史の転換というものを見てみよう」と思ったからであり、その場に立ち会って「ひとつ作品を書いてみたい」と望んだからだ、と。 戦争の現場に入っていくのは怖くないですか、という質問には次のように答えている。 「ものすごくこわいですよ。夜中に考えていたら、僕はもう体が凍えてしまってね。』『本当にキンタマが縮みあがって(笑)しまうわけなんです。』 恐縮緊張する股間が多少なりとものびのびできるよう、お守り代わりにベトナム語で『私ハ日本ノ記者デス』『ドウゾ助ケテ頂戴』と書かれた日の丸の旗を持参することにしたことも、小説家はインタビューのなかであかしている。 この日の丸を常にポケットに忍ばせ、朝日新聞社の故・秋元啓一カメラマンと共に、小説家は約100日間南ベトナムを歩き回った。町、村、川、ジャングル、戦場を精力的に見て歩き、兵士や仏僧、学者たちの話を聞き、農民、老人、女、子供に会い、フォーをすすり、カニを食らい、ハトにかぶりつき、毎晩秋元キャパと2人でウィスキーのボトルを一本空けた。 現地での見聞、体験は『週刊朝日』に「南ベトナム報告」として連載され、連載終了と同時にそれが『ベトナム戦記』(朝日新聞社)として出版された。その3年後、68年には『ベトナ戦記』を下敷きにした書き下ろし小説『輝ける闇』(新潮社)を発表している。 この2つの作品『ベトナム戦記』と『輝ける闇』を読むと、ベトナム戦争に従軍した小説家がその内面に無数の銃弾を浴びたことがよくわかる。 とりわけ大きな銃創となって残ったのがベトコン少年の公開処刑であり、そして小説家自身が巻き込まれたジャングルでの壮絶な銃撃戦である。 2月14日。ジャングルの奧にあるベトコン基地の掃討作戦に参加していた小説家と秋元キャパは、ジャングルのなかでベトコンに包囲され、激しい銃撃を浴びせられ、命からがら逃げ延びるという経験をする。総勢200人の部隊で無事に生き延びたのはわずか17人だけというから、まさに九死に一生である。 以来、小説家はこの日を自らの“命日”と決め、戦友の秋元キャパと2人で盛大かつ徹底的に酒を飲むことを恒例としていた。そんなときである、「あれ以降の人生はオマケみたいなものだ」という言葉がフッと小説家の口から漏れるのは。(以下、略) ~~~~引用終わり~~~~ さっき、ベトナムの再訪記を書くに際して、ヴィエトナムまたはベトナムをキーワードにネット検索をしていた すると、開高健とベトナムが出てきた それに上記の記事が見つかった とたんに、書きたくなったのである 何を書くかと言うことは、今まだ決めていない 筆の・・・いや、キーボードにまかせてみよう ~~~~~ 私は開高健のファンである 日本の小説家としては、一番好きな作家であると言える 他に、司馬遼太郎・山口瞳、それに山本周五郎なども(最近、ブームが去ってからはすっかり忘れていたのだが)、それぞれに好きではある 「日本の小説家」と一応書いたが、私は彼を小説家として好きなのではない 私の意見では、開高健が小説家だったのは、その前半生である 上で説明があるように、重度の鬱になってからは、小説が書けなくなり、ようやく書けるようになってからは、小説では無く、もっぱら洒脱なエッセイを乱作していた 私は小説とエッセイとは異次元のものだと思っている 私だけの独断だが、小説は構成力と想像力や想像力が必要な大変な力仕事である 高麗人参は畑の養分を強烈に吸い取ってしまって、その後にはしばらく作物の収穫が期待できないと言われている 小説もいわばそのようなものではないか? その作家の脳内の創造に関連する養分を吸い取ってしまうので、おいそれと次の作品を創作するに能わないのではないか その点、エッセイは脳を萎縮させない 創造という力仕事をする必要もなく、それまでの人生経験と言う蓄積を感情の発露に和えてサラサラと注ぎ出せば、それすなわちエッセイでは無かろうか? 私は、これと似た事がブログにも言えると思う 開高健のエッセイも、もう小説が書けなくなった、小説脳が枯渇してしまった開高の逃げ場であった 私は開高の小説をそれほど読んでいない 私が好きな開高は、エッセイの開高である 風流人としての開高である 彼のエンサイクロペディア的博識とフランス文学専攻の洒脱な洒落たセンスと大阪人特有の率直なユーモア これらは私の好物である ~~~~~~~ 開高健はベトナムで大変な経験をしているう 米軍の戦闘行為に従軍して、一度は九死に一生を得ている 奇跡の生還である 正確な時系列を知らないが、開高が鬱を発症したのは、あるいはこの戦場体験が引き金かもしれない ただ私は、もともと開高健は鬱体質だったのだろうと思う やはり、鬱になりやすい背景や性格があるのだろう 私は、この開高健と、そうして妻の(悪妻だったそうだが)(笑)上記のサイトでの下記のコメントを読んで、これは「逃げだな」と思った ベトナム体験を「心の銃創」などと被害者的にとらえ、芸術家がたどる悲劇的な道程と美化している ~~~~~ 上記サイトからの別の引用であるが ★ 妻であり詩人であった牧洋子(故人)の次のような言葉が紹介されている。 『苦しいときでも、例えばジョークで、いつもエンターテインしようとした男でした。 そんないっときの歓楽に身をゆだねているような男でした。 それはやはり、ベトナムで見た少年の処刑ですよ。 あらから何をやってもいつも空しいという思いから抜け出せなくなってしまった。』 ~~~~~ 悪妻の(笑)牧洋子の、この文章もいやだ 品がない 言い訳がましく、押しつけがましい 「開高健がいつもジョークをとばし、一時の歓楽に身をゆだねたのは、ヴィエトナムでの少年の処刑を見てからだ」・・・と理由付けをすることによって、悪妻の(こればっか)牧洋子は、夫「開高」の「鬱」の原因を、ベトナムに求め、悲劇の芸術家の妻でいたかったのだろう (私も性格が悪い)(笑) 処刑現場を見たにせよ、戦場で死にかけたにせよ、「あれから何をやってもいつも空しいという思いから抜け出せなくなってしまった」なんて~ 芸術家ぶらないでよ~ (って、私、ヒドイ?) 私もベトナムでは何度も死にかけた 本当に死にかけたのだ 確かにベトナムは危険だらけだった それでも私のベトナム体験は、私を鬱にするどころか 私の人生の中で、夢のような楽しいものとして存在している 当時に私は、死の危険と隣り合わせの日々が楽しかった (私も異常かな?) まあ、芸術家は一般人とは違って繊細な人たちだとされる 「心の傷から流れ出る血をインクにして、原稿を書くと言われる」 (これは私の創作だが)(笑) _| ̄|○ 一方私は、開高を非難することで、結果的に、私が超絶的に俗な、無神経な人間であることを証明しているのだろうが・・・ 私もベトナムでは何度も死にかけた 戦場にこそいなかったが 当時のサイゴン市内は、テロだらけで 開高と同程度に凄惨な現場にいた ほとんど毎日、死ととなり合わせだった それはこれから復刻する「サイゴンの想い出」で読んでいただければわかる ~~~~~ ここまで一直線に書いてきて、私も気がついた 「私は男らしいが、開高は情けない男だ」と、子供のように幼稚なことをわめいているだけだ・・・という事に気がついた 鬱に対しての医学的理解・シンパシーも足りない(笑) う~~ん! 私もレベル低いな~(泣) ~~~~~~~~ しかし、ちょっと言い訳をさせてもらおうか ● 私は、「愛するベトナム」を、「私も共有するベトナムでの戦争体験」を、悪者にされたくなかったのだと思う 鬱をベトナムのせいにして、それを芸術家の宿命のごとく語ることにムカッとしたのだ ● それにもともと私は、「傷ついた」などという言葉・表現がきらいなのだ このナルシスティックな、少女趣味なこの言葉がきらいなのだ 自分を被害者化することによって自分の存在理由を確保する ・・・そういう姿勢がきらいなのだ (よく、自分から巧妙に自動車に体当たりしておいて、慰謝料をとる詐欺に似ている・・・とまで思う 結局どうも、それだけの、私に似つかわしく単純な話なのだと思う ブログにアップするほどの内容ではないのだが、もうここまで書いてしまった(笑) ~~~~~~ 次の日記では、今ちょうど思い出した、未発表の(まだまだあるのだ)(笑)「死にかけた話」を、さらに「新稿」として発表しようと思う 復刻日記ではなく 私も、こりない男である(笑) ~~~~~ 付け足して書くが、こういう記述を見つけた やはり開高健は、私が推測したように、ベトナム以前の若い時期から鬱にくるしめられていたのだ これで、私の「ベトナムのせいにするな!」という本文の正当性が証明された うれしい(笑) ★ 開高健の苦悩 (2) 開高健もまた若いときから鬱病に苦しめられ、自殺願望を持っていた人であった。 「私は若いときから始終、自殺衝動に襲われていたけれども、自殺はできなかった。 チャンスはいくらでもあったはずなのに、どのひとつもつかめなかったので、いまこの辺でこんなことをして暮らしている。」 (『風に訊け』、278ページ。集英社文庫) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.03.15 23:07:37
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